区分 学部共通科目
ディプロマ・ポリシーとの関係
(心)専門的知識と実践的能力 (心)分析力と理解力 (心)地域貢献性
(環)専門性 (環)理解力 (環)実践力
カリキュラム・ポリシーとの関係
(心)課題分析力 (心)課題解決力 (心)課題対応力
(環)専門知識 (環)教養知識 (環)思考力 (環)実行力
カリキュラム全体の中でのこの科目の位置づけ
個人・社会・自然が直面する課題に対して専門的な理解を深めると共に、学際的な柔軟性を有し、実践的な能力を有する。
科目の目的
その要請するところが目まぐるしく移り変わる現代社会においては、目下の個別具体的な課題を処理する力だけではなく、自らの置かれたその時々の状況を、巨視的・長期的な観点から相対化し、問題となっている事柄の本質を洞察する能力が求められる。「学際的」な立場から現状をその全体において把握した上で、見出された課題を対象的に分析し、これに対応していく力を涵養するという、当科目が有する上述のカリキュラム上の意義は、このような社会的要求に応える目的を同時に満たすものである。
到達目標
本学の建学の精神である人間環境学について、その理念と問題意識を、「人間」・「環境」・「時間」というキータームを中心に理解できる。その上で、受講生各自が専攻する学問領域を、人間環境学の理念のもとに捉えられるよう、「人間と自然環境との関わり」、「他者の生への「ケア」」、「心と身体との関わり」という、「環境」・「看護」・「心理」に対応する三つの大きなテーマについて、これらに関連する主要な諸学説を、それぞれ200字から400字で説明できる程度に理解できる。具体的には、後に示す履修判定指標の10項目を参照のこと。
科目の概要
「人間環境学」という建学の理念のもとに目指されているのは、〈知の全体性を取り戻すこと〉に他ならない。学問の個別専門化が進む中で、学問知はその全体的な〈まとまり〉を失い、私たち一人ひとりの生との具体的な〈つながり〉を欠きつつある。では、私たちはこの危機的状況をいかにして打ち破ることができるのか。人間環境学の理念は、こうした鋭い問題意識のもとに建立されたものである。そのため、「人間と環境」と言われるときの「環境」には、自然環境という、狭い意味での環境にとどまらず、精神環境、歴史環境、文化環境、社会環境など、私たち人間を取り巻くあらゆるものが含まれている(「environment」とは元々「取り巻くもの」を意味している)。他方で、ここでの「人間」とは、(西洋近代において前提とされたような)孤立的な個人のことではなく、むしろ共同体の中で他者と共に生きる存在を意味しており、また同時に、それは単に精神的存在であるだけでなく身体的存在でもある。そして、このようにして「人間」と「環境」それぞれについての知の全体的な〈まとまり〉を保った上で、私たち「人間」と「環境」との間の生きた〈つながり〉――すなわち「人間と環境」の「と」――これを追究し、恢復(かいふく)するのが、人間環境学である。本講義では、この理念が指し示すところに従って、私たち一人ひとりが「生きる」ということ、すなわち人間の「生」という根本現象――ここにはいつも既に環境との関わりが見られるわけであるが――に焦点を合わせることで、知の〈まとまり〉と〈つながり〉を維持しつつ、看護学・心理学・環境科学という、人間環境大学の各学部・学科の柱となっている領域へと向かって議論を展開していく。 具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った後に、第四回から第六回にかけては他者の生への関わりについて、第八回から第十回にかけては私たちの生と自然環境との関わりについて、第十二回から第十四回にかけては心と身体の問題について考えていく。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマとする。
科目のキーワード
①人間 ②環境 ③時間性 ④生 ⑤世界 ⑥関心・気遣い(ケア) ⑦人間的な生(ビオス)と生物的な生(ゾーエー) ⑧二人称(あなた)の生と三人称(ひと一般)の生 ⑨魂・心(プシュケー) ⑩身体(ソーマ)
授業の展開方法
AL, ICT. 本講義では、各回の冒頭にハンドアウトを配布し、それに沿って講義を進める(パワーポイントは使用しない)。各回の講義は、(ア)受講生からの意見や質問の紹介とそれに対する教員からの回答、(イ)前回の復習、(ウ)当該回の学習内容(本コマシラバス記載のもの)から構成される。教員による講義が授業の中心になるが、ただし、「AL」がコマの要素として示されている回には、各受講生は、教員から投げかけられた問いに対する回答を、100文字程度の文章の形でリアクションペーパーに記入し、講義内でそれを提出することが求められる。受講生の回答に対する、教員からクラス全体へのフィードバックは、次の回の冒頭に行われる(上記(ア)に該当)。また、「ICT」がコマの要素になっている回には、各受講生は、教員からの問いについての自らの考えを、用意された複数の選択肢の中から選ぶ形で、Webアンケートフォーム(google form)に回答することが求められる。この場合には、受講生の回答はWeb上で即時に共有され(回答の傾向をグラフの形で表示することもある)、また教員からのフィードバックもその場で行われる(上記(ウ)に含まれる)。なお、上とは別に、受講生は、講義内容に関する質問をリアクションペーパーにて行うことができる。それに対する教員からのフィードバックは、質問の内容に応じて、教員からの回答が記入されたリアクションペーパーの返却によって個別に行われる場合と、ハンドアウト上に当該の質問と回答を記載することによってクラス全体に対して行われる場合とがある(上記(ア)に該当)。
オフィス・アワー
(岡崎キャンパス)【水曜日】3時限目・4時限目、【木曜日】昼休み
(大府・松山・道後キャンパス)講義前後、メール(j-shirota@uhe.ac.jp)にて質問に対応する。なお、メールの場合は大学発行のアドレスからのみとする

科目コード COM100
学年・期 1年・前期
科目名 人間環境学
単位数 2
授業形態 講義
必修・選択 必須
学習時間 【授業】90分×15 【予習】90分以上×15 【復習】90分以上×15
前提とする科目 なし
展開科目 なし
関連資格 なし
担当教員名 城田純平
主題コマシラバス項目内容教材・教具
1 人間環境学概論 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第一回)は、第I部の1コマ目に位置づけられる。「人間環境学」の理念とその背景にある問題意識を概観すると共に、「人間環境学」における「人間」と「環境」というキーワードがどのようなものであるかを押さえ、本科目を学んでいくための基礎的な力を養っていく。
⑴梅原猛・河合隼雄・竹市明弘「人間環境大学が目指すもの」(人間環境大学設置時資料;コピーを配布)

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 第一回講義レジュメ§1・2

主題細目② 教材(1)「人間環境大学が目指すもの」

主題細目③ 第一回講義レジュメ§3
コマ主題細目 ① 人間環境学という理念の背景にあるもの ② 人間環境学が目指すもの ③ 人間環境学における「人間」と「環境」の捉え方 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 人間環境学という建学の理念の背景にある大学・学問の状況を知る。自然科学がめざましい発展をとげる以前、ヨーロッパの古代や中世の時代には、自然についての研究は全て「哲学(philosophy)」の一部門であった。(例えば、地動説で有名なガリレオも「自然哲学者(natural philosopher)」と呼ばれた。)しかし、17世紀以降の自然科学の発展に刺激を受け、やがて社会現象や心理現象も「科学的」に研究されるようになっていく。(例えば、18世紀にはアダム・スミスの『国富論』がきっかけとなり経済学が哲学から独立した。また19世紀には、コントによって社会学が科学として成立し、ヴントらによって実験心理学が成立した。)こうした学問の個別・専門化(「枝分かれ」)は今日ますます進んでおり、〈知〉の全体性が失われる危機に私たちは直面している。これはつまり、人間についての〈知〉と、私たちの生きている世界ないし環境についての〈知〉が全体としての〈まとまり〉を失いつつある、ということであり、また、人間について捉える際にも、〈心〉や〈身体〉といった各側面から人間について個別的に研究するようになってきており、人間の全体性が捉えられなくなってきている、ということである。人間環境学という建学の理念の背景にある学問の状況について、以上のレベルまで理解する。
② 〈知の全体性を取り戻す〉という人間環境学の目指すところを、教材⑴「人間環境大学が目指すもの」に基づいて理解する。「人間」と「環境」のそれぞれを全体的な〈まとまり〉として捉えること。そして、その「人間」と「環境」との生きた〈つながり〉を追究することが、そこでのポイントである。建学当初より「人間環境学」の理念においては、学部教育では、狭い個別知識の教育ではなく全体性を恢復し建立することが重要であり、この〈全体性の恢復〉ということをより具体的に遂行するために〈人間と環境〉をキータームとした学びを展開することが企図されていた。これは、(1)地球環境・自然環境を保全するという問題、将来に向かって人間と環境の全体を守り抜く、という問題であり、また(2)現代における精神の危機の問題、すなわち、精神環境の問題でもあり、さらに、(3)私たちの日常性を支える生命をめぐる問題、つまり生命環境の問題でもある。そして、これらの問題を個別に見るのではなく、あくまでもこれらを常に一体化した形で捉えることによって全体性を目指そうということが、人間環境学という建学の理念においては構想されているわけである。人間環境学が目指すものについて、以上の点まで押さえる。
③ 人間環境学における「人間」と「環境」の捉え方は、日常的に私たちが「人間」・「環境」という言葉を用いる際のそれとは異なっている。具体的には、人間環境学における「人間」とは、個人としての人間のみを問題にするものではなく、むしろ人と人との関わりにもまた焦点を当てるものである。この点については、日本の哲学者である和辻哲郎の考えを参照する。彼によれば、西洋においては、人間は個人として捉えられる傾向にあるのに対して、日本では、共同体の中で他者と共に生きる存在として人間が捉えられてきたのだという。その証左として和辻は、『大鏡』などの古典において、「人間」という語が、「世間」、「世の中」、「社会」を表してきた、ということを述べている。他方、人間環境学における「環境」とは、自然環境という狭い意味のみを指しているのではなく、精神環境、歴史環境、社会環境などを含む、広い意味での環境を指示している。そして、以上のような意味で捉えられた「人間」と(広い意味での)「環境」とは、それぞれを独立に捉えられるものではなく、あくまでも「人間」と「環境」との関わりに注目していく必要がある。人間環境学における「人間」と「環境」の捉え方について、このレベルまで理解する。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 人間環境学 ② 学問の細分化・専門化 ③ 全体性 ④ 人間 ⑤ 環境
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:人間環境大学のホームページの「学長あいさつ」と、本科目コマシラバスの〈科目の概要〉、さらに本コマ(第一回)の〈内容〉を読む。次回以降も各回のコマシラバスの〈内容〉を必ず読んでおくこと。なお、今後の予習課題も含め、資料やコマシラバスを読む際には、重要だと思うところに赤ペンで線を引き、現時点では理解が難しいと感じるところには青ペンで線を引いておく。当日の講義では、青ペンで線を引いた箇所が〈分かった〉と思えるように、とくにその点に関する議論には意識を集中するよう心掛けること。 復習:今回の教材として配布された資料を熟読し、人間環境学のポイントとして、とりわけ次の二点の理解を徹底する。一つは、知を全体的な〈まとまり〉として捉えること、もう一つは、人間と環境との生きた〈つながり〉を追究すること。
2 私たちの「生」から始める人間環境学 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第二回)は、第I部の2コマ目に位置づけられるものである。今後の講義においてたえず戻ってくる場所である、私たちの「生」の現実を深く理解し、人間環境学の学習を本格的に開始する。(なお、今回の議論は全体として、20世紀ドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976年)に負うところが大きい。関心のある人は、教材⑴を参照のこと。)
⑴マルティン・ハイデガー『存在と時間I』(原佑・渡邊二郎訳)、中公クラシックス、2003年、173-185頁。

⑵河合隼雄『こころの処方箋』、新潮文庫、1999年、154-157頁(「一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり」)。

⑶ドイツ「倫理科」の教科書(Volker Pfeifer (Hg): Fair Play - Ethik 5/6, Schöningh Verlag, Paderborn, 2010)に掲載されている物語「全ての人間はエゴイストか?」(教員による日本語訳を配布)

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 第二回講義レジュメ§1

主題細目② 教材(1)『存在と時間I』、教材(2)『こころの処方箋』、第二回講義レジュメ§2.1および§2.2

主題細目③ 教材(3)Fair Play、第二回講義レジュメ§2.3
コマ主題細目 ① 人間環境学の時間性(過去性・現在性・未来性) ② 私たちの生の現実における「もの」・「ひと」との関わり ③ 私たちの生と「世界」・「関心・気遣い(ケア)」 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 人間環境学の理念が、人間の生の時間性(歴史・文化の過去性、心身の現在性、環境の未来性)に基づいていることを理解する。「過去性」・「現在性」・「未来性」はそれぞれ独立したものではなく、相互に関わり合っているという点がポイントである。人間環境学においては、物理学において前提にされるような均質な〈今〉の連続として時間を捉えることはせず、むしろ、現在や未来を、過去との関わりの中で捉え、さらに現在や過去を、未来によって規定されているものと考える。これらの時間性の相互の関わりのうち、とりわけ重要なのは、「未来によって過去が規定される」という点である。これは、かみ砕いて言えば、私たちが描く将来の自分自身や世界の在り方によって、現在や過去のもつ意味は変容するということである。
② 私たちが日常的に生きている中で、「もの」や「ひと」がどのように把握されているのかを考える。まず「もの」について検討してみると、例えば、いま私たちが持っているシャープペンシルはどのようなものとして現れているのか、と考えるとき、そこではいつも、「もの」が「何らかの目的」のもとで捉えられていることが分かる。また、私たちの日常生活において、「ひと」がどのような存在として現れているのかを考えてみると、私たちはたとえ「他者」が目の前に不在であるとき(例えば一人で部屋にいるとき)でさえ「他者」との関わりの中で生きている、という点が明らかになる。その際には、教材⑵を参考にする。また、私たちが普段他者と関わる際、多くの場合には、社会的属性(例えば「学生である」、「教員である」、「看護師である」など)がその関係性に大きく関与していることを理解する。
③ ②で見てきたように、私たちが生きる中で出会う「もの」や「ひと」は、たえずある特定の「意味」をもって存在しており、私たちは、〈意味のネットワーク〉としての世界の中でいつも既に生きている。なお、ここでの世界とは、人間環境学の枠組みから言えば、社会的・文化的・歴史的に規定された「環境」とも言い換えられる。こうした〈意味のネットワーク〉としての「世界」には、自分自身(とりわけ自分自身の将来の在り方)への「関心」ないし「気遣い(ケア)」が深く関わっているる。例えば、私たちにとってシャープペンシルが意味のある存在と思われるのは、それが自分自身の将来にとって必要な学びに有用だからである。また、他者への「関心」・「気遣い(ケア)」も、自分自身への「関心」・「気遣い」といつも関わっている。この点については、「利他的」な行為も「自己自身への関心」と無縁ではない、という点の議論されている教材⑶を用いて理解を深める。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 時間性(過去性・現在性・未来性) ② 「もの」 ③ 「ひと」(他者) ④ 関心・気遣い(ケア) ⑤ 世界
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:今回のコマシラバスを読んでおく(読む際の注意については、前回の予習・復習欄を参考にする)。また、教材⑶を第一回講義の終わりに配布するので、これについても一読し、四人の登場人物のうち、誰の考えに最も自分が共感したか、またなぜその考えに自分が共感したのかを、記入用のプリントにまとめておく。 復習:今回の講義の次の二つのポイントを復習し、それぞれについて3分程度で説明できるようにする。ポイントの一つは、自分自身の将来の在り方への関心が、私たちの〈意味のネットワーク〉としての世界を形作っている点、もう一つは、その世界の中で生きている私たちには、個々の「もの」や「ひと」が特定の意味をもってあらわれるという点である。
3 私たちの「生」の二重性―人間的な「生」(ビオス)と生物的な「生」(ゾーエー)― 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第三回)は、人間環境学への導入を行う第I部の3コマ目に位置づけられ、次コマ以降に、看護学・環境科学・心理学の各領域へと議論を展開していくための前提として、私たちの日常において、人間に特有の「生」(ビオス)と、他の生物とも共通する「生」(ゾーエー)とがどのように関わっているのかを考察するものである。
⑴伊藤整『若い詩人の肖像』、講談社文芸文庫、1998年、185-186頁。

⑵プラトン『パイドン―魂の不死について』(岩田靖夫訳)、1998年、28-43頁。

⑶ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(氷上英廣訳)、岩波文庫、1967年、51-54頁(第一部の「身体の軽蔑者」の部分)。

⑷シェーラー『宇宙における人間の地位』(亀井裕・山本達訳)、白水社、2012年、45-50頁。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 教材(1)『若い詩人の肖像』、第三回講義レジュメ§1

主題細目② 教材(2)『パイドン―魂の不死について』、第三回講義レジュメ§2.1

主題細目③ 教材(3)『ツァラトゥストラはこう言った(上)』、第三回講義レジュメ§2.2

主題細目④ 教材(4)『宇宙における人間の地位』
コマ主題細目 ① 人間の日常的な「生」における生物的な「生」 ② 西洋における伝統的な人間理解 ③ ニーチェによる伝統的な人間観への批判 ④ シェーラーの哲学的人間学における人間と動物の区別 ⑤ ―
細目レベル ① 日本語の「生」という語には、「人生」、「生活」、「生命」、「生存」などの多様な意味が含まれているが、それと同様に、life, Lebenといった「生」に該当するヨーロッパ語にも、上のような多義性が認められる。それに対して、古代ギリシア語では、「生」(life, Leben)を意味する単語として、ビオス(bios)とゾーエー(zoe)という二つのものがある。このうちの前者、つまりビオスとは、日本語の「人生」や「生活」に概ね対応するものであり、biography(「伝記」)などの単語にその意味は流れている(ただし、今回の予習課題に取り組むことで分かるように、biologyといった単語は現代ではその意味を失ってしまっている)。他方、後者のゾーエーは、日本語の「生命」や「生存」に当たる言葉であり、これはzoology(「動物学」)などの単語の語源である(ただし、ゾーエー(zoe)は、「動物」だけでなく「植物」も含む広い意味での「生物」の「生」を含意している)。本コマでは、この二つの「生」(ビオスとゾーエー)について、私たち人間は、身体をもって生きる存在である限りで、他の生物とも共通する「生」(=ゾーエー)をもっていると同時に、他の生物には見られない高度に精神的・文化的な「生」(=ビオス)をももっている、という点を押さえる。その上で、私たちの日常生活においては、本来「ビオス」を支えているはずの「ゾーエー」が、文化・儀礼・社会規範などによって隠蔽・抑圧される傾向にあることを、教材⑴の文学作品(伊藤整『若い詩人の肖像』)を参考にして理解する。
② 西洋における伝統的な人間理解においては、人間が理性的存在であるという点が強調されており、それは例えば、人間が、古代ギリシアにおいて「ゾーオン・ロゴン・エコン」(「理性をもった生物」)と定義されたり、中世においてanimal rationale(「理性的動物」)と定義されたりしていることからもうかがえる。これは、人間が「ゾーエー」をもつ存在であるという点、つまり他の生物と同じように肉体をもって生きているという点を否定的に捉えた上で、人間は他の生物とは異なる(ある意味で特権的な)存在であると主張することに通じる。その例として、本コマでは、古代ギリシアの哲学者プラトン(紀元前427年-紀元前347年)の議論(教材⑵(プラトン『パイドン―魂の不死について』))を取り上げる。プラトンによれば、肉体とその欲求は無数の厄介を私たちに背負わせるものであり、肉体とは魂を欺き惑わす存在なのだという。そして、哲学とは魂を肉体から解放しようとすることなのだと彼は考える。本コマでは、こうしたプラトンの主張が、コマ主題細目①で学んだ「二つの生」を補助線にして考えると、ゾーエーに対するビオスの優位を説くものと捉えられる、というところまで押さえる。
③ プラトンに典型的に見られるような理性中心主義の考えは、その後の西洋の歴史を広く規定することになり、例えばそれは(本講義第六回で詳しく検討するように)近代科学の成立と相俟って人間による自然支配をもたらした。しかし、19世紀末ごろになると、こうした(コマ主題細目②で見てきたような)西洋の伝統的な人間観に対して疑いの眼差しがもたらされはじめ、それまで理性に対して劣位に置かれてきた人間の肉体の位置づけも見直されることになる。そうした思想の展開の際立った例として、19世紀ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900年)を挙げることができる。ニーチェによれば、プラトン以来のヨーロッパの思想・宗教・道徳などは全て、肉体から魂を解放して理性的存在たることに優位を置くプラトン主義的なものであるのだという。ところがニーチェは、一見すると肉体を支配しているように見える理性なるものは、実のところ肉体の道具にすぎず、人間においてはむしろ肉体の方こそが理性よりもいっそう根源的に働いている、と主張する。本コマでは、教材⑶(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』)を実際に読み、こうした彼の議論を理解した上で、コマ主題細目①の「二つの生」という観点からすると、ニーチェの主張はビオスに対するゾーエーの力の根源性を説くものと捉えられる、という点まで押さえる。
④ 本コマの最後に、コマ主題細目①~③で学んだ内容を踏まえた上で、20世紀に活躍したドイツの哲学者マックス・シェーラー(1874-1928)による「哲学的人間学」の基本的なポイントを、教材⑷(シェーラー『宇宙における人間の地位』)を参照しつつ確かめる。シェーラーの晩年の思索を端緒とする「哲学的人間学」という思想の潮流は、生物学をはじめとする同時代の諸科学の飛躍的な発展により、人間を他の生物や自然に対して特権的に位置づけることが困難になりつつある状況下で、個別科学の最新の研究成果を踏まえながら、また、人間が生物的な「生」(ゾーエー)をもった存在であることを積極的に認めながら、しかも同時に人間の「生」(ビオス)の特異性を見出そうとするものである。本コマでは、シェーラーと同時代のドイツの心理学者ヴォルフガング・ケーラーによる、チンパンジーの知能行動に関する実験を例として、人間と動物との間の決定的な差異が失われていった時代状況を押さえた上で、〈人間と環境との関わり〉と〈動物と環境との関わり〉との違いに着目して人間の特別な地位を確保しようとしたシェーラーの議論の概略を知る。併せて、同時代の諸学問に積極的に目を向け、学問知の〈まとまり〉を恢復させつつ、環境との関わりの中で人間の生を捉え直そうとする哲学的人間学の姿勢は、「人間環境学」の理念に通じるものであることも押さえる。
⑤ ―
キーワード ① 人間的な生(ビオス) ② 生物的な生(ゾーエー) ③ 精神 ④ 肉体 ⑤ 哲学的人間学
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:biologyという英単語について、この語は19世紀初めから使用されるようになったものであるが、当時この語は、現在のように「生命の科学(the science of life)」という意味を表していたのではなかった。それでは、この語は当時、いったいいかなる意味で用いられており、現代に至るまでの間にその意味はどのように変化していったのだろうか。この点について、第二回講義の最後に配布する、現代の生命倫理学者レオン・R・カスの著作からの抜粋(『生命操作は人を幸せにするのか―蝕まれる人間の未来』(堤理華訳、日本教文社、2002年、377-378頁))を読み、400字程度で説明できるようにしておく。ポイントは、19世紀に用いられ始めた当初biologyという語は、この語を構成している「バイオ」(bio)という部分のギリシア語源に忠実な意味を担っていたものの、それがむしろ別の古代ギリシア語単語「ゾーエー」(zoe)の意味に取って代わられていったということである。復習:今回の講義には大きく分けて二つのポイントがある。一つは、「生(life)」という語に対応する二つのギリシア語がどのようなものであり、その二つの意味の「生」が、私たち人間においてはどのような仕方で見られるか、ということである。もう一つは、魂と肉体に関する、プラトンとニーチェそれぞれの主張は、上の「二つの生」ということを補助線にした場合、いったいどのように捉えることができるか、ということである。まずは、「二つの生」についてその単語と意味を答えられるようにした上で、その二つの言葉を用いながらプラトン・ニーチェの主張の違いを400字程度で説明できるように復習しておくこと。

4 私たちの「生」の本質としてのケア―他者への「ケア」とはどのようなことか?― 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第四回)は、第II部の1コマ目に位置づけられるものであり、他者の「生」との関わりについて議論していくための出発点として、私たちの「生」の本質としての「関心」・「気遣い」(以降これを「ケア」という表記で統一する)について、他者への「ケア」という観点から再検討する。
⑴マルティン・ハイデガー『存在と時間I』(原佑・渡邊二郎訳)、中公クラシックス、2003年、314-315頁。

⑵ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』(氷上英廣訳)、岩波文庫、1970年、82-90頁(第三部の「重力の魔」の部分)。

⑶パトリシア・ベナー、ジュディス・ルーベル『現象学的人間論と看護』、医学書院、1999年。


【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 教材⑴『存在と時間I』、第四回講義レジュメ§1

主題細目② 教材⑴『存在と時間I』、教材⑵『ツァラトゥストラはこう言った(下)』、第四回講義レジュメ§2.1

主題細目③ 教材⑶『現象学的人間論と看護』、第四回講義レジュメ§2.2
コマ主題細目 ① ハイデガーにおける他者理解と「同行」の問題 ② 「他者へのケア」の二つのあり方 ③ 二つの「他者へのケア」と看護的な関係 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 第二回の②で学んだように、ハイデガーの考えでは「もの」との関わりおよび「ひと」との関わりのいずれにおいても、そこにはいつも「自己自身への関心」が結びついているのであった。こうした基本的な議論を踏まえて、ハイデガーは、「他者の世界をいかにして理解するか」という問題についても論じている。彼によれば、可能な限り自分自身を忘れて、あたかも私たちがその人自身であるかのようにして他者の世界を理解しようとするような、こうした他者理解は望ましくないものなのだという。むしろ、彼が肯定しているのは、他者を理解しようとする私たちが、他ならぬ自分自身を放棄することなく、まさしく、その人にとっての他者として、その人の世界を理解するような、このような他者理解に他ならない。後者のように、私は他ならぬ私である、ということを踏まえた上で、他者の生きる世界を理解しようとすることを、ハイデガーは「同行(mitgehen(ミットゲーエン))」と呼ぶ。このような「同行」をする際のポイントは、他者の生の本質にも、その他者自身の「自己自身への関心」がある、という点である。
② 20世紀ドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976年)の議論(教材⑵)を参考にして、「他者へのケア」の二つのあり方を知る。一つは、他者の代わりに何かを行い、暗黙のうちに他者を支配してしまうようなものであり、これは他者その人の自己実現を妨げ、「自己へのケア」を奪い取ってしまう。それに対して、ハイデガーの考えるもう一つの「他者へのケア」は、自らが「自己へのケア」を深める姿勢を他者たちに対して率先して見せることによって、他者その人の自己実現をも促し、彼(女)に「自己へのケア」を取り戻させるというものである。なお、こうしたハイデガーの主張には、第三回の講義でも登場した19世紀ドイツの哲学者ニーチェ(1844-1900年)による、〈自分を愛するのを学ぶ〉ことに関する議論が関連している。ニーチェは、「道」の比喩でもって、ひとの価値観に盲目的に追従するのではなく、「自己へのケア」のもとに自らの価値観を構築し、その人本来の生き方を見出していくことの重要性と、それを教えること(あるいは学ぶこと)の難しさについて述べている。教材⑵を実際に読んで、「他者へのケア」という観点から、その内容を検討していく。
③ ②で学んだ、ハイデガーの述べているところの「他者へのケア」の二つのあり方については、看護学者パトリシア・ベナー(1942-)もまた引き合いに出しており、彼女は、このハイデガーの考えに基づいて、看護的な関係の究極の目標について述べている。ベナーによれば、患者の病気がひどく、人の助けが不可欠な段階では、看護者は他者の世界に飛び込み、他者が気遣っている事柄を引き受けるしかないものの、それが或る一線を越えてしまった場合には、ケアを受ける側が、それ以前に持っていた「自己自身へのケア」を取り戻すのが困難になってしまうのだという。こうしたことを踏まえて、ベナーは、②で取り上げたハイデガーの言う二つのケアのうち、前者は、支配と依存の関係、さらには抑圧にさえ容易く転化してしまうものであり、しかも当事者自身はそのことに気がつきにくいのだと述べている。他方、後者のケアについては、これは、他者が「こうありたい」と思っているあり方でいられるよう、その人に力を与えられる関係であり、看護的な関係の究極の目標をなすのだという。以上のようなベナーの主張を、②の内容と結びつけて、また教材⑶を実際に読みつつ理解する。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 同行 ② 他者へのケア ③ 自己自身へのケア ④ ハイデガー ⑤ ベナー
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:第二回講義の復習課題(①自分自身の将来の在り方への関心が、私たちの〈意味のネットワーク〉としての世界を形作っている点を説明すること、②その世界の中で生きている私たちには、個々の「もの」や「ひと」が特定の意味をもってあらわれるという点を説明すること)に再度取り組んだ上で、今回のコマシラバスを読んでおくこと。また、教材⑵と⑶のコピーをあらかじめ配布しておくので、それぞれを熟読し、赤線・青線を引いておくこと。青線を引いた箇所については、講義当日の主題細目②・③の議論の中で理解できるように、自分が現時点でどこまで分かっていて、何を講義当日に知る必要があるのかを押さえておく。 復習:他者の生への「同行」とは何を意味するのか、これが説明できれば、今回の講義の要点を理解できていると言える。再度、今回の講義の教材資料とレジュメを見直し、紙から目を離しても、上の要点を説明できるようにする。
5 他者の「生」の終わりへの眼差し―「脳死」の問題を例として― 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第五回)は、第II部の2コマ目であり、前回までに学んだ「他者へのケア」について、とりわけ〈二人称と三人称の違い〉という観点から、さらに考えを深めていく。今回は、「脳死」問題を具体例として、人間の「生」の終わり、すなわち「死」の問題を検討する。
⑴柳田邦男『犠牲―わが息子・脳死の11日』、文春文庫、1999年、9-212頁(とりわけ109-150頁、176-212頁)

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 第五回講義レジュメ§1

主題細目② 教材(1)『犠牲―わが息子・脳死の11日』、第五回講義レジュメ§2

主題細目③ 第五回講義レジュメ§3
コマ主題細目 ① 「脳死」とは何か ② 三人称の「死」から二人称の「死」へ ③ 脳死は「人の死」か ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 現代医療の発達により、脳全体が回復不可能な機能喪失状態に陥っているにもかかわらず、肺や心臓の機能を人工的に維持することが可能になった。このとき、まだ機能を保っている心臓・肺・肝臓などの臓器を提供することが可能であることから、(「心停止・呼吸停止・瞳孔拡大」といういわゆる死の三徴候に対して)死を先取りする「脳死」という考えが登場してきたことを押さえる。このようなことを背景として登場した「脳死」については、大まかに言うと、次のような二つの意見の対立がある。一つは、「脳死状態になれば、その人はもはや何も感じることも意識することもない上に、その後確実に心停止がおとずれるのだから、「脳死」を「人の死」としてもよい」、という考えである。他の一つは、「心臓が動いており、体の温かい人間が死んでいるとはとても思えない。死の基準は従来通りの「死の
三徴候」であるべきであり、「脳死」は「人の死」ではない」という考えである。脳死についての正確な知識を得た上で、上のような対立する考えについて理解する。

② 脳死についての取材を重ねてきたノンフィクション作家・柳田邦男(1936-)のテクスト(教材⑴)を読み、彼の考えの変遷を押さえる。科学的な合理性の立場から、脳死を人の死とみなすことに肯定的な立場をとってきた柳田は、ある日突然家族の「脳死」に直面し、まだ体が温かく呼吸をしている家族に接したとき、その状態を容易に「死」として受け入れることは困難であると考えるようになる。これを参考にして、科学的・医学的に人の「死」を見る「三人称の視点」から、生活を共にして世界を共有する関係性の中から人の「死」を見る「二人称の視点」への移動を理解する(ここでの「三人称の視点」とは、自己との結びつきを断った上で、距離を置いて対象的に他者の「生」を捉える視点であり、他方、「二人称の視点」とは、他者の世界に同行しつつ、積極的に関係性を構築した上で他者の「生」を捉える視点のことを指している)。
③ ②の議論を踏まえた上で、あらためて「脳死は人の死か」という問題について、オーストラリアの倫理学者ピーター・シンガーの議論を参考にして考えを深める。臓器提供に関わる医療スタッフを対象とした調査において、「脳死」は「人の死」であると考えるかどうかを尋ねた結果を見ると、欧州では、脳死に接する機会のある医療者の圧倒的多数が「脳死は人の死である」と答えている。しかし、現代の代表的な倫理学者の一人であるシンガーは、このように答える欧州の医療従事者の多くは、実際に現場では脳死患者をけっして死体扱いしていない、という点を指摘している。ただし、シンガーは、臓器移植に反対しているわけではなく、むしろ彼の批判は、「ドナーは死体」であるという仕方で新しく死を定義しようとしたことに向けられている。彼によれば、「脳死状態」について、臓器提供を可能にするためにこれを「死」であると無理やりみなすのではなく、むしろ、「その患者はまだ生きているが、意識を回復することはないし、私たちが何をしてもまもなく死ぬだろう。それなら、患者が死んで臓器が痛む前に、いま臓器を摘出すべきである」と正確に主張すべきであるのだという。こうしたシンガーの議論を正確に理解し、「脳死」の問題と「臓器移植」の問題とは切り離すことができないものであることを、あらためて押さえる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 脳死 ② 二人称の生(あるいは死) ③ 三人称の生(あるいは死) ④ 臓器移植 ⑤ ピーター・シンガー
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:「脳死」とはどのような状態を指すのか、また「脳死」について現在までにどのようなことが問題になっているのかを、とくに「臓器移植」の問題との関連に注意しながら、インターネットで調べてまとめておく。さらに今の時点での自分の意見が、「脳死」を「人の死」とみなすことに対して賛成の立場・反対の立場のどちらに近いものであるのか考え、その理由についてもプリントに記入しておく。復習:今回の講義では、人の「死」を見る二つの視点(二人称の視点・三人称の視点)の違いがポイントになった。この二つの視点はそれぞれどのように異なるのか、教材⑴(柳田邦男『犠牲』)の内容を読み返した上で、これを3分程度で説明できるようにしておくこと。
6 他者の「生」の始まりへの眼差し―「人工妊娠中絶」の問題を例として― 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第六回)は、第II部の3コマ目であり、前回に引き続き、二人称と三人称の見方の相違という点を中心に、「他者へのケア」について検討する。今回は、人工妊娠中絶の問題を具体例として、人間の「生」の始まりの問題を検討する。
⑴アリストテレス「政治学」(山本光雄訳)(『アリストテレス全集15巻』、岩波書店、1969年、318-320頁)。

⑵アルバート・ジョンセン『生命倫理学の誕生』(細見博志訳、勁草書房、2009年、351-373頁)。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 教材(1)「政治学」、教材(2)『生命倫理学の誕生』、第六回講義レジュメ§1.1

主題細目② 教材(2)『生命倫理学の誕生』、第六回講義レジュメ§1.2

主題細目③ 第六回講義レジュメ§2
コマ主題細目 ① 中絶(堕胎)に関する言説の歴史 ② 「生」の始まりをめぐる現代の論争 ③ 三人称の「生」から二人称の「生」へ ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 現代の「人工妊娠中絶」の問題を検討するにあたって、「中絶」(「堕胎」)に関する言説の歴史を理解する。古代ギリシアの哲学者アリストテレス(紀元前384-紀元前322年)は、「奇形の子どもを生かしておかない法律がなければならない。また、夫婦の子どもが多すぎれば、生命と感覚が始まる前に堕胎させなければならない」と述べており、人口抑制などの目的で、「胎児」の生命と感覚が始まる――彼の考えでは妊娠4か月から6か月期のある時期がそれにあたるのだが――前に堕胎をすることを許容していることを知る(教材⑴を参照する)。その考えが西洋のキリスト教文化圏における堕胎に関する倫理を何世紀にもわたって規定してきたこと、17世紀の医学者トマス・ド・ファイネスによるアリストテレス批判(ド・ファイネスは「入魂」の時期は妊娠と同時かその直後であると考える)がその流れを変えていったことを押さえる。
② 「生」の始まりをめぐる現代の論争について、1990年にイギリスで制定された「人間の授精及び胚研究法」における見解(「受精後14日までは人間の胚は単に細胞の集合体にすぎず、法的保護を与える必要はない)とするもの(現在でも中絶を支持する人のほとんどは、この受精後14日までは、法的保護を与えるのに十分なほど胚は成長していないと主張している)や、1996年に日本で制定された「母体保護法」の内容(特定の条件下における妊娠22週未満までの人工妊娠中絶が許容されている)を検討し、その根拠の正統性について考える。例えば、後者の「母体保護法」においては、〈胎児が母体外において生命を保続することができるか否か〉という点が、「生」の始まりをめぐる議論の根拠になっている。
③ 生物学的な視点や法的な視点から考察する①や②のような見方に対して、前回の②で学んだような「二人称」の視点から「生」の始まりを考えるとき、どのようなことが言えるのか。「胎動」をはじめとする身体的な側面にも注目しつつ考察することで、「身体性」と生をめぐる理解も同時に深めていく。また、①や②のような視点は、まさに「三人称」の視点から「生」の始まりを考えるものであったが、こうした視点もまた、文化的・歴史的な環境に拘束されたものであり、さらに、今日では医療技術の進歩によって「生」の始まりの時期についての考えがあらためられる可能性もある、という点を押さえる。例えば、日本の「母体保護法」に基づいて考える場合には、母体外において生命を保続することのできる時期が医療技術の発達によってますます早まるにつれて、中絶が可能な時期もいっそう前倒しされていく可能性があり、これは或る意味で「生」の始まりとされる時期が早まっていくということでもある。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 中絶(堕胎) ② プシュケー(魂) ③ 二人称の生と三人称の生 ④ アリストテレス ⑤ ド・ファイネス
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:「母体保護法」における「人工妊娠中絶」に関する規定をインターネットで調べておく。その上で今回のコマシラバスをよく読み、現在の日本における法的規定と比較しつつ、「中絶」(「堕胎」)に関して歴史的にどのような議論が展開されてきたのかを概観しておく。その際には、いつものように、理解が及ばない点には青線を引き、講義当日によく備えること。 復習:前回は、人の死についての二つの視点(二人称・三人称の視点)がポイントになったが、今回は、この二つの視点から人の生の始まりについて見たときにどのようなことが言えるのかを考えた。この点についての理解を徹底するため、二人称の視点から見る場合と、三人称の視点から見る場合では、人の生はいつから始まるかという問題について、どのような異なった考えが成立するか、ミニレポート(600字程度)を作成する。
7 復習コマ⑴ 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第七回)は、第II部の復習コマであり、「脳死」・「人工妊娠中絶」といった具体的な問題を再度引き合いに出しつつ、〈二人称と三人称の違い〉という観点から「他者へのケア」についてこれまでに学んできたことを再確認する。
⑴マルティン・ハイデガー『存在と時間I』(原佑・渡邊二郎訳)、中公クラシックス、2003年、314-315頁。

⑵パトリシア・ベナー、ジュディス・ルーベル『現象学的人間論と看護』、医学書院、1999年。

⑶柳田邦男『犠牲―わが息子・脳死の11日』、文春文庫、1999年、109-150頁、176-212頁。

⑷アリストテレス「政治学」(山本光雄訳)(『アリストテレス全集15巻』、岩波書店、1969年、318-320頁)。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 教材(1)『存在と時間I』、教材(2)『現象学的人間論と看護』、第四回講義レジュメ

主題細目② 教材(3)『犠牲―わが息子・脳死の11日』、第五回講義レジュメ

主題細目③ 教材(4)「政治学」、第六回講義レジュメ
コマ主題細目 ① 他者への「ケア」と「環境」 ② 他者の「生」の終わり ③ 他者の「生」の始まり ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① ハイデガーは、「他者への関心(気遣い・ケア)」について二つのタイプを挙げており、そのうちの一つは、他者の代わりに何かを行い、暗黙のうちに他者を支配してしまうようなものであるのに対して、もう一つは、自らが「自己へのケア」を深める姿勢を他者たちに対して率先して見せることによって、他者その人の自己実現をも促し、彼(女)に「自己へのケア」を取り戻させるというものであった。そして、この二つの「他者への関心」について、看護学の観点からパトリシア・ベナーは、前者のような「他者への関心」は、支配と依存の関係、さらには抑圧にさえ容易く転化してしまうものであるのに対して、後者は、他者が「こうありたい」と思うようなあり方でいられるように支援するものであり、看護的な関係の究極の目標をなすのだと述べていた。さらに、ニーチェは、後者の「他者への関心」を〈自分を愛するのを学ぶ〉ということと関連づけていたのであった。「他者への関心」に関する以上の議論を再確認すると共に、ハイデガーの「同行(mitgehen(ミットゲーエン))」の概念についても、自己を放棄して他者に「感情移入」することとの違いから、あらためて理解する。
② 他者へのケアを具体的に考えていく上で、これまでに本講義では、「二人称」と「三人称」の視点の相違を強調してきた。ここでは、この点について復習しつつ、「脳死」の問題を捉え直していく。「二人称の視点」とは、他者の世界に「同行」しつつ、自己と他者との関係性の中でその他者の生を捉える視点であり、それに対して、「三人称の視点」とは、自己との関係性の中からではなく、むしろ対象的に他者の生を捉える視点である。この二つの視点を具体例に当てはめてみると、「脳死」の問題については、「二人称の視点」からは、「三徴候死」であれ「脳死」であれ、これを一概に「人の死」とはみなすことができない、ということになり、「三人称の視点」からは、法的・医学的な立場からこれらを「人の死」として積極的に認めていくことになる。このように、他者の生の終わりが「二人称の視点」・「三人称の視点」からどのように捉えられるか、という点を再確認する。
③ ②で復習した「二人称」と「三人称」の視点から、「人工妊娠中絶」の問題を捉え直してみるならば、前者の視点に立つときには、例えば日本の「母体保護法」で許容されている22週未満までの人工妊娠中絶であったとしても、それは生命の喪失として捉えられうるであろうが、他方で、後者の視点に立つときには、法的・医学的な立場から定められた或る時点以前の人工妊娠中絶は「殺人」とはみなされない、ということになる。ここでは、「人工妊娠中絶」の問題について、このように「二人称の視点」・「三人称の視点」から再検討することと併せて、中絶に関する思想史のポイントも回顧する。具体的には、アリストテレスによる、胎動の見られる時期(「物体」に「魂」の吹き込まれる時期)以前の「堕胎」を許容する議論、そして、トマス・ド・ファイネスによる、「入魂」は妊娠と同時かその直後に生じるというアリストテレス批判、さらに、現代の欧米や日本における「人工妊娠中絶」に関する法的・医学的な見解を復習する。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 同行 ② 他者へのケア ③ 二人称の生と三人称の生 ④ 脳死 ⑤ 中絶(堕胎)
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:今回のコマシラバスをよく読んでおくこと。また、第九回・第十回で学んだ、「脳死」や「中絶(堕胎)」の議論について、これを「二人称の視点」・「三人称の視点」から見たときに、それぞれどのような見解の違いが生じうるかという点を、あらためて考えておく。復習:履修判定指標⑥~⑧(第八回から第十回までの講義内容に該当する)に対応する練習問題を配布するので、これを各自で解き、Webアンケートフォーム上に回答を入力しておくこと。また、解いてみて分からなかった問題については、今回までのレジュメの該当箇所およびコマシラバスを読み、確認しておく。
8 私たちの「生」は「環境」とどのように関わっているのか?―動物との比較から― 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第八回)は、第III部の1コマ目であり、私たち人間の「生」が「環境」(「自然環境」という意味での狭義の「環境」)とどのように関わっているのかを検討し、自然環境についての議論へと本格的に入っていく。その際に特に参照するのは、20世紀前半に活躍した哲学者マックス・シェーラーの哲学的人間学である。
⑴シェーラー『宇宙における人間の地位』(亀井裕・山本達訳)、白水社、2012年、45-50頁。

⑵ユクスキュル『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳)、岩波文庫、2005年、11-26頁。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 教材(1)『宇宙における人間の地位』、第八回講義レジュメ§1

主題細目② 教材(2)『生物から見た世界』、第八回講義レジュメ§2

主題細目③ 第八回講義レジュメ§3
コマ主題細目 ① 人間における「環境世界」からの自由 ② ユクスキュルの環境世界論 ③ ユクスキュル・シェーラー・ハイデガーの三者の議論の共通点と相違点 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 前回の④で検討したシェーラーの議論をさらに詳しく検討していく。具体的には、人間と動物との比較考察を行う中でシェーラーが、人間以外の動物はそれぞれの種に固有の「環境世界」をもっているのに対して、唯一人間のみは「環境世界」から自由にふるまうことができる存在と考えている点(これは人間の「世界開放性」と呼ばれる)を理解する。また同時に、こうしたシェーラーの主張の背景に、どのようなことがあるのかも押さえる。19世紀頃までのヨーロッパでは人間と動物とが全く異なる存在であることは自明のこととされていたものの、20世紀には生物学の飛躍的な発展が見られるようになり、チンパンジーの知能実験などを通して、人間と他の生物との間に決定的な区別を設けることに疑問がもたれるようになっていた。そこで、私たち人間も身体をもった存在であり、他の生物と共通する生命をもっているということが積極的に再検討されることになった。一方で、人間と動物との共通性を積極的に認めつつも、同時に、人間と動物との間に何らかの区別があることを主張しようとする哲学の流れも生まれた。そうした思想の代表的なものとして、上のようなシェーラーの主張がある、というわけである。なお、こうしたシェーラーの主張は、前回②で学んだ西洋の伝統的な人間理解の延長上にある、という点も押さえる。
② ①で見てきたシェーラーの主張の背景には、ドイツの生物学者ユクスキュル(1864-1944)による環境世界(ユクスキュルの用語としては「環世界」)についての議論がある。ユクスキュルは「環境」を、自然科学的に数値化されうるような客観的なものではなく、各生物によって異なる、主体に相関的なものとして捉え直している。この議論を、マダニの吸血行動の具体例(教材⑵)を通して理解する。ユクスキュルの生きていた当時の1930年代初頭ごろの生物学では、動物の生きている環境は数字で記述できるような客観的なものとして理解された上で、人間も含めたあらゆる動物は同一の世界を生きているものとみなされていた。しかし、ユクスキュルは、1934年の『生物から見た世界』において、こうした考えに反論している。その際に例として引き合いに出されるのが、マダニの吸血行動である。ダニは、哺乳類のような温血動物の生き血を吸うために、森や藪の茂みの灌木の枝先によじのぼり、そこで獲物を待っており、その下を小さな哺乳類が通ると、ダニは即座に落下して、その動物の体に取りつき吸血行動をとる。ユクスキュルによれば、こうしたダニの一連の行動において、必要な知覚シグナルは、「酪酸の匂い」・「哺乳類の体温を感じるための温度感覚」・「皮膚の接触刺激」の三つだけなのだという。つまり、このとき、ダニにとってはこの三つのシグナルだけが意味をもち、ダニの世界はこれらだけで構成されている、ということになる。そしてユクスキュルは、ダニだけでなく、どの動物もそれぞれ、自分にとって意味のあるものの組み合わせによって、自分たちの環世界(環境世界)を構築している、と主張している。
③ ここまでに学んできたユクスキュル、シェーラー、ハイデガーの議論のつながりを、以下のように整理して理解する。ユクスキュルは、全ての生物は、それぞれの種に固有の環境世界に生きていると主張しており、このことは、各生物によって、受け取ることができる感覚シグナルが異なるために生じるのであった。こうした彼の議論のポイントは、⑴〈一つの世界という容器の中に全ての生物がいる〉と考えるのではなく、〈各生物がそれぞれの環境世界をもっている〉と考える点、また、⑵人間もまた生物の一種として、他の生物がその種に固有の世界を持つのと同じように、人間に固有の環境世界を持つと考え、人間の特権性を否定している点である。それに対して、シェーラーの議論のポイントは、⑴〈各生物がそれぞれの環境世界をもっている〉というユクスキュルのポイントの⑴の発想を踏まえつつ、しかし人間のみは、その環境世界から自由であると主張し、人間の特権性を肯定している点、また、⑵このような仕方で、〈人間と世界との関係〉が、〈生物と環境世界との関係〉とどのように異なるのかを明らかにしようとした、という点である。このような、ユクスキュル・シェーラーの二者の議論に対して、ハイデガーの議論の重要な点は、⑴〈各生物がそれぞれの環境世界を持っている〉という、ユクスキュルのポイントの⑴の発想を応用し、〈人間一人ひとりがそれぞれの世界をもっている〉ということを主張し、また、⑵そもそも人間における生物的存在としての側面を問題にせず、〈人間と世界との関係〉は、〈生物と環境世界との関係〉とは根本的に異なることを疑わず、人間の特権性を前提にしている、という点である。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 世界開放性 ② 人間にとっての「環境」と動物にとっての「環境」 ③ 環境世界(環世界) ④ ユクスキュル ⑤ シェーラー
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:教材⑵(ユクスキュル『生物から見た世界』)の議論をこちらで要約したプリントを予め配布するので、今回のコマシラバスとあわせて読んでおく。教材⑵の議論から、今回のコマシラバスの〈主題細目②〉に書かれている結論(どの動物もそれぞれ、自分にとって意味のあるものの組み合わせによって、自分たちの環世界(環境世界)を構築している、という結論)がどうして出てくるのかを考えておくこと。 復習:人間と環境との関わりは、動物と環境との関わりとどのように異なるのか、という点が今回のポイントである。〈主題細目①〉のシェーラーの議論を復習し、人間の「世界開放性」とはどのようなことを表しているのか、3分程度で説明できるようにする。
9 人間が環境を守ることの「なぜ」と「どのように」―社会環境との関わりの中で― 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第九回)は、第III部の2コマ目であり、自然環境に関する議論を、社会環境との関わりも視野に入れて展開する。私たちが「なぜ」自然環境を守らなければならないのかを、未来世代への責任という観点から考察した上で、さらに、それでは私たちは「どのように」自然環境を守っていけばよいのかを、社会環境との関わりから検討していく。
⑴ハンス・ヨナス『責任という原理』(加藤尚武訳)、東信堂、2000年、154-156頁、221-224頁。

⑵ニクラス・ルーマン『エコロジーのコミュニケーション』(庄司信訳)、新泉社、2007年、244-245頁。

⑶マイケル・サンデル『公共哲学』(鬼澤忍訳)、ちくま学芸文庫、2011年、144-148頁。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 教材(1)『責任という原理』、第九回講義レジュメ§1

主題細目② 第九回講義レジュメ§2

主題細目③ 教材(2)『エコロジーのコミュニケーション』、第九回講義レジュメ§3

主題細目④ 教材(3)『公共哲学』、第九回講義レジュメ§4
コマ主題細目 ① 「なぜ」環境を守るのか ② 「なぜ」から「どのように」へ ③ 「どのように」環境を守るのか ④ 「どのように」から「なぜ」へ ⑤ ―
細目レベル ① 20世紀ドイツの哲学者ハンス・ヨナス(1903-1993年)は、「非人間中心主義」の立場(私たち人間の存在とは独立に自然それ自体に価値を認めようとする立場)から、自然環境と未来世代に対する倫理を構想している。ヨナスの考えでは、それまでの倫理学において前提となっていたような、対等な立場の人間同士の間にだけではなく、自分が一方的に相手を意のままにできるほどに、自分と相手との間に圧倒的な力の不均衡がある場合にも、倫理的な配慮がなされるべきだとされている。そのような、自分がその存在を意のままにできるような対象とは、例えば、危機に瀕している自然や、まだ生まれてきていない未来世代の人間などである。ヨナスは、このような「自分の意のままにできあるもの」、つまり、自分の力で簡単にその存在を無に帰することができるようなものに対して、私たちは「責任」を負っているのだと主張している。その主張の根拠を、とくに「責任のバトン」という考え(〈未来世代が責任を果たすことへの責任のバトン〉を私たちは継承していかねばならないという主張)を中心に理解する(教材⑴を参照)。
② ①のヨナスのような主張も、あくまでも「非人間中心主義」の立場からなされたものであったが、英語圏を中心に展開された環境思想も、1990年代になると、「人間中心主義」(自然の価値は私たち人間の存在に依存しており、私たち人間にとって有用であるからこそ自然には価値があるとする立場)対「非人間中心主義」という、哲学上の立場の対立を保留した上で、環境問題についての個々の現場での議論に対応していくために、実践的に環境思想を展開しようとする立場(「環境プラグマティズム」)が登場してくること(これはいわば、環境を守ることの「なぜ」の問いから、「どのように」の問いへのシフトである)を押さえる。英語圏の環境思想は、20世紀初め頃の、「いかに自然を効率的に利用できるか」という人間中心主義的な思想から、1970年代ごろからの非人間中心主義的な思想へと移行し、その後1990年代に環境プラグマティズムが興隆した、という大きな流れがある。非人間中心主義の代表的な論者であるクリストファー・ストーンなどの議論にもふれつつこれも概観し、理解する。
③ では私たちは「どのように」自然環境を守っていくべきなのか。これを考える上で、現代社会に生きる私たちは社会・経済環境の問題を度外視するわけにはいかない。長い間私たちは、経済的な発展に価値を置き、自然環境をあくまでもそのための利用対象として捉えてきた。しかし、20世紀末頃より、経済発展に伴う資源の過剰消費の問題や、環境汚染による地球環境問題の深刻化が指摘されるようになり、例えば、国連では、地球環境保護等を目指した「持続可能な開発目標」(SDGs)が採択されるなどしている。しかし、それにもかかわらず、企業の経済活動に起因する環境問題は十分に克服されているとは言えない。このような現状に対して、20世紀ドイツの社会学者ニクラス・ルーマン(1927-1998年)は、経済の中に環境保全の問題を内部化すること(環境への対応が具体的な経済効果を伴うようにすること)によってのみ、企業の自主的な環境問題への対応が期待できる、としている(教材⑵を参照)。こうしたルーマンの主張を押さえつつ、それが具体化されたものとして、高等学校「公民」科で学んだ、「環境税」、「(温室効果ガスの)排出権取引」などの取り組みを理解する。
④ ③で取り挙げた「排出権取引」の取り組みについて、アメリカの政治哲学者マイケル・サンデル(1953-)は、その有効性を認めつつも、ただし、排出権の国際的な市場を形成することによって、環境について育むべき倫理が傷つけられる(「環境の価値」が「経済的な価値」に取り込まれてしまう)可能性も指摘している(教材⑶を参照)。これはつまり、経済的な価値が世界を支配しつつあることこそが環境問題の根源であるのにもかかわらず、「排出権取引」などの取り組みにおいては、環境の価値が経済的な価値に依存することになってしまい、根本的な環境問題の解決にはならない、という主張である。自然環境の問題を経済メカニズムの中で解決することの有効性を十分に理解した上で、同時に、自然環境の価値をたえず私たちが見直すこともまた求められている点(つまり「なぜ」の問いと「どのように」の問いの往復の重要性)を押さえ、次コマの議論へつなげる。
⑤ ―
キーワード ① 責任のバトン ② 社会環境 ③ ヨナス ④ サンデル ⑤ ルーマン
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 主題細目③での学習に備えて、高等学校の「公民」で学んだ「環境税」、「排出権取引」について復習しておく。その際には、なぜそのような取り組みが行われるようになったのか、また、そのような取り組みをすることによって環境問題の本質的な解決につながるのかどうか、という点について、自らの意見をまとめておくこと。 復習:本コマでは、次の二点を重点的に復習しておくこと。一つは、ヨナスによる環境を守ることの「なぜ」についての回答(「責任」・「未来世代」ということをキーワードにまとめること)、もう一つは、ルーマンによる環境を守ることの「どのように」についての主張(「経済」・「内部化」ということをキーワードにまとめること)である。それぞれを説明できるようにしておく。
10 日本と西洋における「人間環境」の捉え方の相違 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第十回)は、第III部の3コマ目に位置づけられる。自然環境に関する議論についての最後に、これまでに学んできた西洋の思想家たちの議論を踏まえた上で、日本における自然環境の捉え方について学ぶ。日本と西洋における自然観の違いにふれることで、思考をさらに進めていく。
⑴丸山眞男『忠誠と反逆』、ちくま学芸文庫、1998年、354-423頁(論文「歴史意識の「古層」」)。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 教材(1)『忠誠と反逆』、第十回講義レジュメ§1

主題細目② 第十回講義レジュメ§2

主題細目③ 第十回講義レジュメ§3
コマ主題細目 ① 日本と西洋における自然観 ② 西洋における「人間環境」の捉え方と「つくる」の発想 ③ 日本における「人間環境」の捉え方と「なる」の発想 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 日本の政治学者・思想家である丸山眞男(1914-1996年)の議論(教材⑴)を手がかりにして、日本と西洋における自然観の違いを理解する。丸山は、「つくる」「うむ」「なる」の三つの基本動詞によって世界の宇宙創世神話(宇宙の成り立ちについての神話)を説明しようとしている。「つくる」に対応する宇宙創成論とは、「万物は人格的創造者によって一定の目的でつくられた」というものであり、また「うむ」に対応するものは、「神々の生殖行為で生まれた」というものである。さらに、「なる」に対応する宇宙創成論とは、「世界に内在する神秘的な霊力の作用で具現した」というものなのだという。丸山は、日本の神話においては、(男女二神の生殖による「国生み」が語られるなど「うむ」の論理も登場しているものの、)その思考様式の根本には「なる」の発想があるのに対して、西洋文明を規定してきたユダヤ・キリスト教系列の神話においては「つくる」の発想が支配的である、と述べていることを押さえる。
② 西洋における人間環境の捉え方は、丸山によれば「つくる」の発想によって貫かれているということであったが、これは、西洋文明においては、何かが「ある」ということが「つくる」の発想によって捉えられている、ということを表している。こうした西洋における「つくる」の発想は、古代ギリシアの哲学者プラトンの「理性主義」と結びつき、理性をもった人間は、自然を自由に「つくりかえる」ことができるものと考えられるようになっていった。さらに、これが近代になると、科学技術の発達により、自然環境を容易に操作することができるようになり、自然は人間によって支配・コントロールされるものとして捉えられるに至った(人間中心主義の発想)。「つくる」の論理は、このように、環境に対する人間の関わりを、歴史的な展開の中で根本的に規定し続け、これが今日の環境問題の背景にあるという点までを押さえる。
③ ①で見てきたように、丸山の議論では、日本においては「なる」の発想が日本人の意識を現在に至るまで規定しているのだとされている。これは、「誰かが○○した」というのではなく、「自然に〇〇になった」という発想であり、日本人においては、何かが「ある」ということが「なる」の発想によって考えられているわけである。②で見てきたように、「つくりかえる」ことのできるものとして自然をみなす西洋的な発想とは異なり、日本における「なる」の発想では、自然環境は私たち人間によって支配されるものではなく、むしろ、それ自体で或る種の力をもって自立的に存在・成長していくものとされている(非人間中心主義の発想)。なお、このように、人間と自然との関わりを考える上では、日本的な「なる」の発想はポジティブな面をもっているわけであるが、環境思想の文脈から離れて、社会思想的な面から見る場合には、「なる」の発想を重視する日本人においては、「世間的なもの」」への同調が重視され、自由で主体的な判断を行う「個人」が形成されにくい、という面もあることまで併せて理解する。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 日本と西洋の自然観 ② 「なる」の発想 ③ 「つくる」の発想 ④ 丸山眞男 ⑤ 個人主義
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:コマシラバスとあわせて、教材⑴(丸山眞男『忠誠と反逆』)を要約したプリントを熟読し、「なる」の発想と「つくる」の論理が、それぞれ日本と西洋の文化や思想にどのように影響しているのかを考えておくこと。さらに、そのような文化や思想が、自然環境の問題や社会環境の問題にどのように関係しているかを考えておくこと。また、主題細目③での学習に備えて、高等学校の「公民」で学んだ「環境税」、「排出権取引」について復習しておく。 復習:本コマでは、次の二点を重点的に復習しておくこと。一つは、ヨナスによる環境を守ることの「なぜ」についての回答、もう一つは、ルーマンによる環境を守ることの「どのように」についての主張である。それぞれを説明できるようにしておく。
11 復習コマ⑵ 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第十一回)は、第III部の復習コマとして位置づけられるものであり、第八回から第十回にかけて学んだ、〈環境〉に関する事柄を、第I部で学んだ、人間環境学に関する基本的な内容と併せて、履修判定指標に定位しつつ復習する。
⑴シェーラー『宇宙における人間の地位』(亀井裕・山本達訳)、白水社、2012年、45-50頁。

⑵ユクスキュル『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳)、岩波文庫、2005年、11-26頁。

⑶ニクラス・ルーマン『エコロジーのコミュニケーション』(庄司信訳)、新泉社、2007年、244-245頁。

⑷マイケル・サンデル『公共哲学』(鬼澤忍訳)、ちくま学芸文庫、2011年、144-148頁。

⑸丸山眞男『忠誠と反逆』、ちくま学芸文庫、1998年、354-423頁。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 第三回講義レジュメ

主題細目② 教材(3) 『宇宙における人間の地位』、教材(4)『生物から見た世界』、第八回講義レジュメ

主題細目③ 教材(5) 『エコロジーのコミュニケーション』、教材(6) 『公共哲学』、教材(7) 『忠誠と反逆』、第九回講義レジュメ、第十回講義レジュメ
コマ主題細目 ① 人間の「生」と生き物の「生」 ② 人間の「環境」への関わりと、生き物の「環境」への関わり ③ 環境を守ることの「なぜ」と「どのように」 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 「生(Life, Leben)」という語には、「bios(ビオス)」と「zoe(ゾーエー)」という二つのギリシア語が対応しており、前者は人間の「生」、後者は生き物の「生」を表している。私たちの日常生活においては、ゾーエーは隠蔽・抑圧される傾向にあるが、しかしゾーエーはビオスの基礎を成すものであり、第II部で取り扱った看護領域においては人間のビオスの側面と共にゾーエーの側面が表立って問題となる。また、この二つの「生」の問題を、プラトンとニーチェという二人の哲学者の議論に引き付けて考えてみるとき、プラトンの主張は、ビオスに重きを置いたものとして捉えられるのに対して、ニーチェの主張は、むしろゾーエーにウェイトを置いたものとして考えられるのであった。
② 20世紀ドイツで活躍したシェーラーは、同時代の生物学の成果を積極的に議論に取り入れつつ、人間におけるゾーエーの側面を強調している。ただし、シェーラーの議論では、それにもかかわらず人間は他の動物とは根本的に異なっているものとされており、その相違は、「精神(ガイスト)」の有無という点に求められる。シェーラーによれば、精神的存在としての人間は、他の動物が自身の「環境世界」に縛られているのに対して、そこから解放されて自由に振る舞うことができるのだという。こうしたシェーラーの議論は、生物学者ユクスキュルの「環(境)世界論」を参考にして展開されているものであり、各生物がそれぞれに固有の「環境世界」をもっているというユクスキュルの主張を、シェーラーは基本的に継承しているわけであるが、ただし、ユクスキュルの場合には、人間もまた自らに固有の「環境世界」をもっていると考えられていたため、シェーラーとユクスキュルとの間には、生物全体の中での人間の地位をめぐる根本的な考えの相違がある。
③ 1970年代ごろから英語圏を中心に展開された環境思想においては、自然の価値は人間に依存するものとみなす「人間中心主義」と、自然の価値は人間とは独立に存在するものと考える「非人間中心主義」との間の思想的対立が見られた。この二つの対立軸は、実は、自然環境をめぐる思想の多くに当てはめて考えることのできるものであり、例えば、社会学者ルーマンと政治哲学者サンデルの考えの対立も、ルーマンのように自然の価値を経済的な価値に還元していこうという主張は「人間中心主義」的であるのに対して、サンデルのように自然の価値を経済的な価値から独立に存在するものとみなす考えは「非人間中心主義」的である、と整理することができる。また、丸山眞男の議論ついても、自然を「つくられたもの」とみなす西洋流の考えは「人間中心主義」に親和的である一方で、自然は自ずから生成・成長していくものであるとする古来の日本の思考様式は「非人間中心主義」に近しいものである、とまとめることができる。このように、講義の中で学んだ概念を正確に理解することにより、種々の議論に補助線を引き、問題の所在をよりクリアに捉えることができる場合がある、ということを押さえておく。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 「人間」と「環境」 ② 「もの」・「ひと」と関心・気遣い(ケア) ③ ビオスとゾーエー ④ 環境世界 ⑤ 人間中心主義と非人間中心主義
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:今回のコマシラバスをよく読んでおくこと。また第八回で学んだシェーラーの人間観が、第三回の②で検討した古代ギリシアの人間観(「魂をもった生物」という人間観)とどのような関係にあったのかを整理しておく。また、第八回から第十回のコマシラバスの復習課題に再度取り組み、各回でポイントになったことを中心に、自然環境に関する議論を総復習する。復習:これまでの講義内容に該当する履修判定指標に対応した練習問題を配布するので、これを各自で解き、Webアンケートフォーム(google form)上に回答を入力しておくこと。また、解いてみて分からなかった問題については、今回までのレジュメの該当箇所およびコマシラバスを読み、確認しておく。
12 「生」の学としての「プシュケーの学」―古代ギリシアにおける「プシュケー」(魂)と「ソーマ」(身体)― 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第十二回)は、第IV部の1コマ目に位置づけられる。上述の通り、今回からの第IV部では、「心」・「魂」(プシュケー)と「身体」(ソーマ)の関わりについて考察していく(プシュケーは、心理学(psychology)の語源)ことになるが、今回はとくに、古代ギリシアにおける「プシュケー」と「ソーマ」の関係を、「生」をキーワードにして考え、次回以降への準備とする。
⑴プラトン『パイドン―魂の不死について』(岩田靖夫訳)、1998年、28-43頁。

⑵アリストテレス『心とは何か』(桑子敏雄訳)、講談社学術文庫、1999年、68-86頁。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 教材(1)『パイドン―魂の不死について』、第十二回講義レジュメ§1

主題細目② 教材(2)『心とは何か』、第十二回講義レジュメ§2
コマ主題細目 ① プラトンにおけるプシュケーとソーマ ② アリストテレスとプラトンの議論の対照 ③ アリストテレスにおけるプシュケーとソーマ ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 第三回で取り上げたように、古代ギリシアの哲学者プラトン(紀元前427-紀元前347年)は、プシュケー(魂)とソーマ(肉体)との関係について、魂は肉体という牢獄につながれた囚人であるとしている。彼によれば、肉体は、様々な欲望で私たちを満たすものであり、肉体と欲望こそが絶えざる争いの原因なのだという。このような肉体的欲望から魂を解放し、自分自身の魂を配慮(ケア)して生きることをプラトンは理想としている(そしてニーチェはこれを批判していた)わけであるが、こうしたプラトンの主張の背景には、プシュケー(魂)は人間の死後にソーマ(肉体)を抜け出て輪廻する、という考えが控えている。そのため彼によれば、死とは単なる肉体の死に過ぎず、これを恐れることはないのだという。以上のようなプラトンの主張においては、プシュケー(魂)とソーマ(肉体)とは、それぞれ独立に存在するものと捉えられている(肉体がなくとも魂は存在することができる)、という点を押さえる。
② 第十回で登場した古代ギリシアの哲学者であるアリストテレス(紀元前384-紀元前322年)の考えでは、プシュケー(魂)とソーマ(身体)の関係は、①で見たプラトンの考えとは対照的なものであることを理解する。具体的には、アリストテレスの議論では、プシュケーは身体の上にしか現れない一方で、プシュケーを取り去ってしまえば「生」はもはや「生」ではなくなってしまう(プシュケーは「生」の本質である)とされており(そのため第十回に見たような〈胎動の見られる時期に魂が吹き込まれるまでは胎児は単なる物体である〉という考えが成立するわけであるが)、ただし同時に彼は、プシュケーの側もまたソーマなしには存在しないとされており、つまり、プシュケー(魂)とソーマ(身体)とは、切り離すことのできない一体のものであるということになる。
③ コマ主題細目②で言われていたところの「生」とは、第三回の講義の区別(「人間的な生(ビオス)」と「生物的な生(ゾーエー))で言うと、生物的な生(ゾーエー)のことである。アリストテレスの考えるプシュケー(魂)には、栄養や生殖といった植物的機能、感覚や欲望や運動といった動物的機能、そして人間のみに備わる理性的機能があるとされており、彼においては、プシュケーは生物において働く或る種の「力」とみなされている。ここまでのアリストテレスの考えでは、プシュケー(魂)とソーマ(肉体)とは、プラトンの場合とは異なりそれぞれ独立に存在することが不可能なものと捉えられており、また、人間のみがプシュケーを有するのではなく、植物や動物もまたプシュケーをもつものとされている、という点がポイントである。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① プシュケー(魂) ② ソーマ(身体) ③ 人間的な生(ビオス)と生物的な生(ゾーエー) ④ プラトン ⑤ アリストテレス
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:今回の講義は、第三回で学んだ、プラトンにおける魂と肉体についての議論と、やはり第三回で学んだ、「人間的な生」(ビオス)と「動物的な生」(ゾーエー)についての議論を前提にして進んでいく。第三回の講義の内容を、この二つのポイントを中心に振り返った上で、今回のコマシラバスを熟読すること。 復習:プシュケー(魂)とソーマ(身体)との関係が、プラトンとアリストテレスにおいてどのように異なったのかということが、今回の講義のポイントである。この点は、次回以降の議論においても参照される。今回のコマシラバスの〈主題細目①・②〉に書かれている内容を、シラバスから目を離して説明できるように、コマシラバスと今回のレジュメを使ってよく復習しておく。
13 私たちの「心」と「身体」はどのように関わっているのか?―「心身問題」― 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第十三回)は、第IV部の2コマ目であり、前回学んだ、古代ギリシアの哲学者たちによる議論を踏まえて、近代の哲学者デカルトの「心身二元論」とそれに関わる問題を中心に、「心」と「身体」との関係についてさらに検討していく。
⑴ルネ・デカルト『方法序説』(山田弘明訳)、ちくま学芸文庫、2010年、55-58頁。

⑵高橋澪子『心の科学史―西洋心理学の背景と実験心理学の誕生―』、講談社学術文庫、2016年、26-58頁。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 第十三回講義レジュメ§1

主題細目② 教材(1)『方法序説』、教材(2)『心の科学史―西洋心理学の背景と実験心理学の誕生―』、第十三回講義レジュメ§2

主題細目③ 第十三回講義レジュメ§3
コマ主題細目 ① 「心」と「身体」に関する日常経験 ② 心身二元論 ③ 心身問題 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 私たちの普段の生活においては、「足にやけどをしたので痛みを感じる」、「熱さを感じて足をひっこめる」、「悲しいので涙が流れる」といったことが自然と語られており、心と身体が相互に関わり合っているのは当たり前のことのように思われる。しかし、よく考えてみると、「足にやけどをした」ことと、「痛みを感じる」こととの間には、あるいは、「悲しい」ことと、「涙が流れる」こととの間には、どのような関係があるのだろうか。物体としての身体の出来事と、意識や感覚というかたちでの出来事には何の共通点もないように考えられる(例えば「痛み」を物体だとみなす人はいないだろう)。まずは、こうした「心」と「身体」をめぐる問題意識を押さえる。
② ①で考えたような日常的な素朴な実感を定式化したものとして、17世紀フランスの哲学者デカルト(1596-1650)の「心身二元論」(教材⑴を参照)を、前回の①と関連づけて理解する。デカルトは、〈思う(意識する)〉という働き(ここには具体的には、「認識」、「意志」、「感覚」、「感情」、「欲望」が含まれる)をもつ「心」と、〈ひろがり〉(具体的には「位置」、「形状」、「大きさ」、「重さ」、「運動」というかたちをとる)をその本質とする「物体」とを、それぞれお互いに独立の領域のものとして考えた。デカルトは、「猿またはどれか他の、理性をもたない動物と、全く同じ器官をもち、全く同じ形をしている機械があるとすると、その機械とそういう動物との区別はつかないだろう」と述べており、動物を「自動機械」とみなしている。そうしたデカルトにおいては、もちろん「身体」は「物体」の側に位置づけられることになり、人間の「心」と「身体」とはまったく別の領域のものとして考えられることになった。(なお、デカルト的な心身二元論の枠組みと現代心理学との関係については講義内でふれる余裕がないが、これを発展的に学びたい人は例えば教材⑵を参照のこと。)
③ ②のようなデカルトの「心身二元論」を前提にするとき、①で考えたような〈心と身体の関係〉をどのように説明するかが問題となる(「心身問題」)。これはつまり、「心」と「身体」は全く別々に存在するはずであるのに、私たちの日常生活において「心」と「身体」は明らかに互いに影響し合っているように思われるのはなぜなのか、という問題である(具体的には、例えば、「足をやけどしたので痛みを感じる」という先の場面について、「足のやけど」という身体的・物理的な現象から、どのようにして「痛みを感じる」という心的な現象が生まれたのか、とったことが問題となる)。デカルト自身はこれについて、「心」と「身体」の相互作用は、脳の内部にある「松果腺(しょうかせん)」と呼ばれる場所で生じていると説明しているが、しかし、この「松果腺」があくまでも「物体」の領域に存在するものである限り、結局のところ、どうして「物体」であるところの「松果腺」が「心」と影響し合うのか、という問題が残ることになる。ここではこうした問題の内容を、現代の生理学や脳科学の知見も踏まえつつ理解すると共に、デカルト以来の困難は、現代でも乗り越えられたとは言えないことを押さえる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 心身二元論 ② 心身問題 ③ デカルト ④ 「松果腺」仮設 ⑤ 脳科学
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:今回のコマシラバスを熟読した上で、私たちの日常生活における「心」と「身体」が関わり合っている例を三つ以上考え、講義当日の議論をより実感的に理解できるよう準備しておく。また同時に、今回のコマシラバスの〈主題細目②〉に書かれているような、フランスの哲学者デカルトの議論は、前回学んだプラトンの議論とどの点において近いと言えるのか、あらかじめ考えておく。 復習:「心身問題」とはどのような問題なのか、今回の講義のポイントは、これである。〈主題細目①・③〉で書かれているような、日常における「心」と「身体」との関わりや、自分自身が予習として考えてきたことを具体例として「心身問題」について説明できるようにしておくこと。
14 「生きた身体」―私たちの「生」の現場へ戻る― 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第十四回)は、第IV部の3コマ目であり、前回・前々回の議論を踏まえ、「身体」を、前回登場したデカルトの「心身二元論」の発想からではなく、日常経験に即しつつ「生きた身体」として捉え直す。その際に特に20世紀フランスの哲学者メルロ=ポンティの議論を参照する。
⑴メルロ=ポンティ『知覚の現象学1』(竹内芳郎、小木貞孝訳)、みすず書房、1967年、125-159頁、230-246頁。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 教材(1)『知覚の現象学1』、第十四回講義レジュメ§1

主題細目② 教材(1)『知覚の現象学1』、第十四回講義レジュメ§2

主題細目③ 教材(1)『知覚の現象学1』、第十四回講義レジュメ§3
コマ主題細目 ① 生きた身体 ② 「媒体」(なかだち)としての身体 ③ 「習慣」としての身体 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)(教材⑴を参照)は、「身体」を「物体」とみなすのではなく、あくまでも、〈わたし〉が「世界」の中の「もの」や「ひと」と具体的に関わる場面を念頭に、これを「生きた身体」として捉えようとしている。デカルトのように、心と身体とを区別しようとする場合、「心」とは私たちの内側にあって直接感じられるものであるのに対して、「もの(物体)」は私たちの外側にあるものとされた上で、「心」が、その外側にある「もの」を捉える(知覚する)という図式がしばしば考えられている。そして、デカルトのように「身体」を「もの(物体)」の側に位置づける場合には、「身体」もまた「知覚されるもの」ということになる。しかし、それに対してメルロ=ポンティは、「身体」は対象として「知覚されるもの」でもなければ、機械のように操作されるものでもないのだという。ここではまず、今回の②や③のメルロ=ポンティの議論の背景にある、デカルトへの批判を押さえる。
② ①で見たように、デカルトの「心身二元論」においては、「身体」は「物体」の領域にあるものと考えられており、他の様々な「もの」(例えば「黒板」、「シャープペンシル」など)と並んで見出されていた。しかし実は、黒板が見られたり、シャープペンシルが握られたりといった日常的な経験においては、その多くのケースで、「身体」は、対象として主題的に「知覚されるもの」ではない(例えば、「机の上に置いてあるシャープペンシルを握る」という経験において、これを握ろうとする手自体は多くの場合対象化されないだろう)。メルロ=ポンティによれば、むしろこのとき「身体」は、物体が感覚(という心の働き)へともたらされるための「媒体」(なかだち)という役割を果たしているのだという。その意味で、私たちの身体は、物体として捉えられる以前に、そもそも何かが現れるための場として考えられるべきだ、というメルロ=ポンティの主張を押さえる。
③ メルロ=ポンティは、身体についての分析を進める中で、私たちの日常生活において「ものや「ひと」に向かって意識的に関わっていく際、身体は、それらの関わりを可能にする役割をもっているのだと考える(=「習慣としての身体」)。例えば、具体的には、自転車を運転したり、パソコンのキーを打ったりといった行為は、私たちの日常生活においてことさら意識されることなしに(非主題的に)行われているものであり、身体的に習慣化されている(「からだで憶えている」)事柄であると言える。このようにして身体は世界の中で私たちが生きる上でいわば〈地盤〉としての役割を果たしているのだ、というメルロ=ポンティの主張を理解する。そして、このような「からだで憶えている」ことの中には、その人の日々の〈生活の記憶〉が沁み込んでおり、例えば、長く住んでいた家から引っ越したとき、昔の家の家具の配置などを「からだが憶えている」ために新しい家で動作にとまどうといったことがある。このようにして考えてみると、私たちの「身体」は、生物的な生(ゾーエー)に属するだけでなく、人間に特有の生(ビオス)にも属するものである、ということができる。上のような具体例をもとに、この点まで押さえる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 生きた身体 ② 媒体としての身体 ③ 習慣としての身体 ④ デカルト ⑤ メルロ=ポンティ
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:今回のコマシラバスを、いつものように熟読した上で、自分の生活の中で「からだで憶えている」と思うこと(例えば、「車の運転」、「ピアノの演奏」、「目をつぶっていても目覚まし時計をとめられる」など)を5つ以上ピックアップして、講義内容を身近に考えられるよう準備しておく。なお、今回のコマシラバスを読む際には、フランスの哲学者メルロ=ポンティの議論が、前回学んだデカルトの考えのどの点を批判しているのか、という点にとくに注意して予習すること。 復習:今回の講義のポイントは、デカルトとメルロ=ポンティの「身体」の捉え方の違い、である。これを説明できるようにしておくと共に、第十二回・第十三回の復習課題にも再度取り組み、「心」と「身体」についての問題を総復習する。
15 まとめ 科目の中での位置付け 本科目では、〈知の全体性の恢復〉という、本学の建学の理念である「人間環境学」の指し示すところにしたがって、本学の各学部・学科の柱となっている、心理学・環境科学・看護学の各領域へと向かって議論を展開する。具体的には、第一回から第三回にかけて人間環境学への導入を行った上で(第I部)、第四回から第六回にかけては、他者の「生」への関わりについて(第II部)、第八回から第十回にかけては、私たちの「生」と自然環境との関わりについて(第III部)、第十二回から第十四回にかけては、心と身体の問題について考えていく(第IV部)。なお、第七回・第十一回・第十五回はそれぞれ、それまでの内容を復習し、まとめるためのコマ(「復習コマ」)とする。上のような本科目全体の中で、本コマ(第十五回)は、第IV部の復習コマとして位置づけられると共に、本講義のまとめのコマでもある。自然環境についての議論、他者のケアについての議論、心と身体についての議論を横断することで、それぞれの問題についてさらに新しい視座を提供し、人間環境学の視点から各自が今後も学び続けられるようにする。
⑴プラトン『パイドン―魂の不死について』(岩田靖夫訳)、1998年、28-43頁。

⑵西村ユミ『語りかける身体―看護ケアの現象学』、講談社学術文庫、2018年、152-176頁。

⑶萩原朔美(監修)『芸術はからだからだ』、愛知県芸術文化センター、1992年、237-244頁。

【教材・講義レジュメとコマ主題細目との対応】
主題細目① 教材(1)『パイドン―魂の不死について』、第十二回講義レジュメ

主題細目② 教材(2)『語りかける身体―看護ケアの現象学』、第十三回講義レジュメ、第十四回講義レジュメ

主題細目③ 教材(3)『芸術はからだからだ』、第十四回講義レジュメ
コマ主題細目 ① 私たちの生と自然環境 ② 他者へのケアと身体 ③ 身体と環境 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 私たちの自然環境との関わりを考えるとき、人間という存在者を全体としてどのように捉えるかが大きな問題となることを再確認する。例えば、プラトンのようにプシュケー(魂)をソーマ(身体)に対して優位に置く発想においては、生物的な生(ゾーエー)には低い価値しか与えられておらず、これは、私たち人間が自然に依存して生きているという面を見過ごすことにもつながっていく。むしろ、ニーチェやシェーラーがそうであったように、私たち人間のうちにゾーエーを積極的に認めていくことで、人間と自然(環境)に共通する、価値の根拠を見つけていくことができるかもしれない、という点を理解する。また、丸山眞男の議論において見られたように、西洋と日本とでは自然環境に対する考え方が根本的に異なるという点も、あらためて確認する。とくに、自然の価値を人間にとっての価値ということとは独立に考えようとする非人間中心主義の立場は、たしかに日本における「なる」の発想に近しいものがあるものの、しかし、例えば英語圏で1970年代以降に登場した環境思想における非人間中心主義の思想は、人間以外の生物や環境に対しても或る種の「権利」を認めようとするものであり、その考えの成立過程に大きな違いがあることを理解する。
② 他者へのケアということを考える際に、デカルト的な心身二元論の発想をとる場合には、身体はいわば単なる自動機械のようにみなされてしまうことになるが、それに対して、メルロ=ポンティの考えでは、その人の世界と分かちがたく結びついたものとして身体の意味が新たに捉え直されることになる。第九回で扱った医療・看護倫理的な問題も、この視点からあらためて考えられることを押さえる。例えば、「植物状態」の人の身体について、これを医学的な三人称の視点ではなく、むしろ人と人との関係性に重きをおく二人称の視点から見る場合、そしてそこにメルロ=ポンティの考えを導入するならば、科学的知識では説明できないような、医療現場における「植物状態患者」と看護師との「視線の絡み合い」といった経験も説明することが可能になる。デカルトとメルロ=ポンティの「身体」についての基本的な考えの違いを復習しつつ、以上のような応用的な問題についても理解する。
③ 私たちの身体の問題にも、環境が大きく関わっている点を理解する。例えば、前回の③で取り上げた、メルロ=ポンティによる「習慣としての身体」についての議論は、私たちが日常生活において「もの」や「ひと」に向かって意識的に関わっていく際に身体がそれらの関わりを可能にする役割をもっている、という点に注目したものであったが、こうした「習慣としての身体」には、前回取り上げたような個人的な生活経験によって獲得されたものだけでなく、社会的・歴史的・文化的に規定されているものも含まれる。例えば、目線を下げてお辞儀をする日本人の文化習慣などは、環境によって身体が規定されていることの一例であると言えるであろうし、また、舞踊のような身体芸術は、単にその人の内面の表現であるだけでなく、その人を取り囲んできた環境の表れとも考えられる(教材⑶を参照)。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① プシュケーとソーマ ② ビオスとゾーエー ③ 心身二元論 ④ 生きた身体 ⑤ 身体と環境
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:コマシラバスの〈科目の概要〉欄と第一回講義の欄を再読し、人間環境学の理念を再度正確に押さえるべく、第一回講義の復習課題にもう一度取り組む。さらに、今回のコマシラバスを熟読し、各主題細目で書かれている内容を踏まえて、自分自身が専門的に学んでいることが、人間環境学という大きな枠組みの中でどのように位置づけられるのか、400字程度で記述しておく。 復習:期末試験に備えて、全ての回の内容をよく復習しておく。その際には、コマシラバスを大いに活用して、次のように復習すること。コマシラバスの各回の復習課題はその回のポイントを押さえるためのものであるので、まずはこれを全てやり直すことで、各回の最重要な点を確認することができる。各回の復習課題に取り組んだ結果、理解が不十分であることが明らかになった場合には、該当する回のコマシラバスを熟読すること。それでもまだ復習課題をうまくクリアできない場合には、該当する回の講義レジュメまでよく読み、再度課題に取り組む。
履修判定指標
履修指標履修指標の水準キーワード配点関連回
人間環境学の理念とその背景にある問題意識 人間環境学の理念が登場した背景について、〈現代に至るまでの学問の在り方〉という点から復習して理解しておくこと。また同時に、人間環境学の理念そのものについて、そのキーワードである「人間」・「環境」・「時間」の意味などを復習して理解しておくこと。より具体的には、以下の二つのことが求められる。⑴「なぜ人間環境学が必要なのか?」という問いに対して、〈学問の在り方〉というキーワードを用いて、400字程度で説明できるようにしておくこと。⑵「人間」・「環境」・「時間」という用語が人間環境学において使用される際の意味について、複数の選択肢の中からこれを説明した正しいものを選べるようにしておくこと。 人間環境学、学問の在り方、人間、環境、時間 10 第1回、第11回、第15回
日常性における「もの」や「ひと」との関わり 日常の「生」の現場において、私たちが個々の「もの」や「ひと」とどのように関わっているのかを、〈自己への関心(気遣い・ケア)〉というハイデガーの用語を用いて、400字程度で説明できるようにしておくこと。具体的には、「もの」については、個々の一つ一つの「もの」が目的(「~のため」)のネットワークで結びついており、しかもそれが自己への関心と結びついている、という点がポイントであり、また、「ひと」については、利他的な行為においても実は自己への関心が結びついている、という点がポイントである。 もの、ひと、(環境)世界、自己への関心(気遣い・ケア)、ハイデガー 10 第2回、第8回
人間の「生」と生き物の「生」 「生(Life, Leben)」という語に対応する、二つのギリシア語(カタカナでよい)と、その意味を答えられるようにしておくと共に、それぞれのギリシア語が、現在の英単語にどのように流れており、また現在の英単語においては、そのギリシア語源の意味がどのように変容してしまっているかを答えられるようにしておくこと。また、魂と肉体の関係についての、プラトンとニーチェの主張の違いを400字程度で説明できるよう、復習して理解しておくこと。 人間の生(ビオス)、生き物の生(ゾーエー)、魂、肉体、プラトン、ニーチェ 10 第3回、第12回
人間の「環境」への関わりと、生き物の「環境」への関わり ⑴20世紀に活躍した哲学者シェーラーが、〈人間の「(環境)世界」への関わり〉は、〈生き物の「環境世界」への関わり〉とどのように異なっていると考えているのかを、人間の「世界開放性」というキーワードを用いて200字程度で説明できるようにしておくこと。

⑵シェーラーの議論は、(ア)生物学者ユクスキュルの環境世界論のどのような点を継承しているのか、また、(イ)ユクスキュルの環境世界論とはどの点において異なっているのかを、(ア)、(イ)それぞれ150字程度で説明できるようにしておくこと。
環境世界、世界開放性、シェーラー、ユクスキュル 10 第8回、第9回
環境を守ることの「なぜ」と「どのように」 ⑴日本の思想家である丸山眞男の議論によれば、日本と西洋それぞれにおける自然環境の捉え方は、どのように異なるものと考えられるか、300字程度で説明できるようにしておくこと。その際、日本と西洋それぞれにおける自然環境の捉え方が、「人間中心主義」、「非人間中心主義」の立場とそれぞれどのような関係にあるのかも示すこと。

⑵ドイツの哲学者ハンス・ヨナスにおける「責任のバトン」の考えとはどのようなものであるか、200字程度で説明できるようにしておくこと。

⑶私たちはどのように環境を守っていくことができるのかという点について、社会学者ルーマンと政治哲学者サンデルの考えの対立点を、「環境の価値」、「経済的な価値」という二つのキーワードを用いて200字程度で説明できるようにしておくこと。
人間中心主義、非人間中心主義、〈環境の価値〉と〈経済的な価値〉、ヨナス、丸山眞男、ルーマン、サンデル 10 第9回、第10回、第11回
他者への「ケア」と「環境」 ⑴ハイデガーが挙げている、「他者への関心(気遣い・ケア)」の二つのタイプとはどのようなものであるか、それぞれのタイプについて、「自己への関心」というキーワードを用いつつ100文字程度で説明できるようにしておくこと。

⑵19世紀の哲学者ニーチェが「道」の比喩で述べていることについて、(ア)それはどのようなことを表現しているのか、また(イ)それは上の二つのタイプの「他者への関心」とどのような関係にあるのかを、それぞれ150字程度で説明できるようにしておくこと。

⑶ハイデガーにおける「同行」の概念を、200字程度で説明することができるようにしておくこと。
他者への関心(気遣い・ケア)、自己への関心(気遣い・ケア)、環境世界、同行、ハイデガー、ニーチェ 10 第2回、第4回、第7回
他者の「生」の始まりと終わり ⑴他者の「生」や「死」を考える際の二つの視点(「二人称の視点」、「三人称の視点」)の違いについて、「脳死」と「人工妊娠中絶」の問題を例として、400字程度で説明できるようにしておくこと。

⑵アリストテレス以来の、「中絶」(「堕胎」)に関する言説の歴史について、その説明として正しいものを選択肢の中から選べるようにしておくこと。具体的には、アリストテレスの考え、ド・ファイネスの考え、現代の欧米における規定、現代の日本における規定を理解しておくこと。
二人称の視点、三人称の視点、脳死、人工妊娠中絶 10 第5回、第6回、第15回
古代ギリシアにおける「プシュケーの学」 プラトンとアリストテレスにおいては、「プシュケー」がそれぞれどのようなものとして捉えられているか、両者の主張の違いを明らかにしつつ、300文字程度で説明できるようにしておくこと。具体的なポイントとしては、「プシュケー」と「肉体」との関わりが、両者においてはどのように異なっているか、という点、また、とくにアリストテレスの場合には「プシュケー」が人間のみではなく植物や動物にも認められるものとして考えられている、という点が挙げられる。 プシュケー(魂)、ソーマ(身体)、人間の生(ビオス)、生き物の生(ゾーエー)、プラトン、アリストテレス 10 第2回、第12回
私たちの「心」と「身体」―「心身問題」― ⑴「心身問題」とはどのようなものであるかを、この問題の前提となっている、デカルトの「心身二元論」の考えを踏まえた上で、400文字程度で説明できるようにしておくこと。

⑵デカルトの議論が、プシュケーとソーマに関する、プラトンやアリストテレスの議論とどのような関係にあるのかを200文字程度で説明できるようにしておくこと。

⑶現代の生理学や脳科学の知見を考慮に入れたときに「心身問題」はどのように考えられるのかという点について、選択肢の中からこれを説明した正しい文を選べるようにしておくこと。
心身問題、心身二元論、プシュケー(魂・心)、ソーマ(身体)、デカルト 10 第12回、第13回
私たちの「身体」と「環境」―「生きた身体」・「習慣としての身体」― ⑴20世紀フランスの哲学者メルロ=ポンティによる、「媒体としての身体」という「身体」の捉え方について、それは、デカルトの「心身二元論」における身体の捉え方とどのように異なるものであるか、400字程度で説明できるようにしておくこと。

⑵メルロ=ポンティの言うところの「習慣としての身体」に関して、歴史的・文化的環境によって規定された身体的習慣の例を三つ挙げられるようにしておくこと。生理的な現象(例えば、「まばたき」など)はこの例には当てはまらないので注意するように。
生きた身体、習慣と身体、身体と環境 10 第14回、第15回
評価方法 期末試験(100%)によって評価する。*成績発表後、教務課にて試験・レポートに関する総評が閲覧できます。
評価基準 評語
    学習目標をほぼ完全に達成している・・・・・・・・・・・・・ S (100~90点)
    学習目標を相応に達成している・・・・・・・・・・・・・・・ A (89~80点)
    学習目標を相応に達成しているが不十分な点がある・・・・・・ B (79~70点)
    学習目標の最低限は満たしている・・・・・・・・・・・・・・ C (69~60点)
    学習目標の最低限を満たしていない・・・・・・・・・・・・・ D (60点未満)
教科書 使用しない(各回の「教材・教具」欄に記載のテクストを随時配布)
参考文献 各回の「教材・教具」欄を参照のこと
実験・実習・教材費