区分 (心)心理学専門領域科目 子ども・発達領域 (犯)犯罪心理学基盤科目 (生・環)学部共通科目
ディプロマ・ポリシーとの関係
(心)専門的知識と実践的能力 (心)分析力と理解力 (心)地域貢献性
(環)専門性 (環)理解力 (環)実践力
カリキュラム・ポリシーとの関係
(心)課題分析力 (心)課題解決力 (心)課題対応力
(環)専門知識 (環)教養知識 (環)思考力 (環)実行力
カリキュラム全体の中でのこの科目の位置づけ
(心)本科目は,心理学専門領域科目の子ども・発達領域において1年次の科目として設置されている。本科目を履修することで,子ども・発達領域の2年次以降の科目内容における専門的知識および人間存在についての理解を深めることを目指す。さらに,他の領域の専門科目との関連においても有機的に結びついた学習が可能となる
(犯)犯罪心理学基盤科目に位置づけられ,私たち自身がそれであるところの人間存在についての根本的な考察を行うとともに,人間存在分析の精神医学との関わりについても学ぶ。当科目では,人間存在についての考察を通して,2年次以降の専門的な学修に必要となる基礎知識を修得する。

科目の目的
本科目では、20世紀を代表する哲学者の一人であるマルティン・ハイデガーがその主著『存在と時間』において展開した人間存在分析を主な参照項として、私たち自身がそれであるところの人間存在についての根本的な考察を行う。その際には、ハイデガーの主張を批判的に継承した東西の思想家たちによる議論も見、日本文化論的な視点を取り入れる。なお、ハイデガーから影響を受けたメダルト・ボスの主張などをも参照することで、人間存在分析の精神医学との関わりについての理解も目指す。
到達目標
西洋の哲学者たちや日本の思想家たちの議論を参考として、私たち自身がそれであるところの人間存在についての理解を深めることを目標とする。それにあたって、本科目では私たち自身人間の生の終わり、すなわち死という現象を補助線として、ハイデガーをはじめ、東西の哲学者たちの議論の内容を正確に理解することを目指す。具体的には、履修判定指標を参照のこと。
科目の概要
本科目では、私たち自身がそれであるところの人間存在について、私たちの生の終わり、すなわち死という現象を補助線にすることで、その理解を深めていく。私たち人間の存在を考えてみるとき、私たちは、「なかま」の中で生きる存在であると同時に、一人一人が自らの生を営む個別的な存在でもあることが分かる。日常においてなかなか実感されにくいこのことが表立って問題になる場面の一つとして、私たちが「死」と向き合うときが挙げられるだろう。例えば、「わたしの死」は、「なかま」の中での死としての共同体的な性格をもつものである一方で、他者に代わってもらうことのできない自己に固有な性格ももっていると考えられる。本講義では、こうした「死」の問題を主要テーマとして、「なかま」の中で生きることと「わたし」が生きることとの関係、あるいは、親しい他者である「あなた」が生きることと「わたし」が生きることとの関係という、私たち人間の存在の根本に関わる問題にアプローチしていく。なお、こうした考察の過程では、日本人の死生観といった日本文化論的な問題も取り上げると同時に、安楽死といった狭義の生命倫理的なトピックについても検討する。さらに、ハイデガーから影響を受けたメダルト・ボスの主張などをも参照することで、人間存在分析の精神医学との関わりについての理解も目指す。さて、本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理的な問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。
科目のキーワード
①一人称の死(「わたしの死」) ②二人称の死(「あなたの死」) ③不特定の誰かの死(「だれかの死」) ④共同体における死(「なかま」の中での死) ⑤死の代理不可能性(だれかに代わりに死んでもらうことはできないということ) ⑥死の経験不可能性(自分の死を経験することはできないということ) ⑦安楽死 ⑧哲学と精神医学 ⑨「間柄(あいだがら)」的存在(人間同士の関係性の中で生きる者)としての人間 ⑩日本人の死生観
授業の展開方法
AL, ICT. 本講義では、各回の冒頭にハンドアウトを配布し、それに沿って講義を進める(パワーポイントは使用しない)。各回の講義は、(ア)受講生からの意見や質問の紹介とそれに対する教員からの回答、(イ)前回の復習、(ウ)当該回の学習内容(本コマシラバス記載のもの)から構成される。教員による講義が授業の中心になるが、ただし、「AL」がコマの要素として示されている回には、各受講生は、教員から投げかけられた問いに対する回答を、100文字程度の文章の形でリアクションペーパーに記入し、講義内でそれを提出することが求められる。受講生の回答に対する、教員からクラス全体へのフィードバックは、次の回の冒頭に行われる(上記(ア)に該当)。また、「ICT」がコマの要素になっている回には、各受講生は、教員からの問いについての自らの考えを、用意された複数の選択肢の中から選ぶ形で、Webアンケートフォーム(google form)に回答することが求められる。この場合には、受講生の回答はWeb上で即時に共有され(回答の傾向をグラフの形で表示することもある)、また教員からのフィードバックもその場で行われる(上記(ウ)に含まれる)。なお、上とは別に、受講生は、講義内容に関する質問をリアクションペーパーにて行うことができる。それに対する教員からのフィードバックは、質問の内容に応じて、教員からの回答が記入されたリアクションペーパーの返却によって個別に行われる場合と、ハンドアウト上に当該の質問と回答を記載することによってクラス全体に対して行われる場合とがある(上記(ア)に該当)。受講人数が20名程度までの少人数であった場合には、毎回受講生全員にリアクションペーパーを返却することで、個別のフィードバックを実施する予定である。
オフィス・アワー
(岡崎キャンパス)【水曜日】3時限目・4時限目、【木曜日】昼休み
(大府・松山・道後キャンパス)講義前後、メール(j-shirota@uhe.ac.jp)にて質問に対応する。なお、メールの場合は大学発行のアドレスからのみとする

科目コード PSC223
学年・期 1年・後期
科目名 人間存在論
単位数 2
授業形態 講義
必修・選択 選択
学習時間 【授業】90分×15 【予習】90分以上×15 【復習】90分以上×15
前提とする科目 なし
展開科目 (心)教育思想
(犯)刑事政策論
関連資格 なし
担当教員名 城田純平
主題コマシラバス項目内容教材・教具
1 「わたしの死」の問題への導入(1)―「わたしの死」は恐くない?― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、第一部の導入コマの1コマ目である。死に関する現代日本の言説を検討し、本講義で今後ポイントとなる基本的視座を獲得すると共に、古代ギリシアにおける死についての議論を学ぶことで、現代日本における死生観を相対化していく。
【コマ主題細目①】
・鶴見済『完全自殺マニュアル』(太田出版、1993年、とりわけ195頁)。
・南条あや『卒業式まで死にません』(新潮文庫、2004年、とりわけ12頁)。

【コマ主題細目②】
・プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』(久保勉訳、岩波文庫、1927年、66~68頁)。
・プルタルコス『モラリア』(瀬口昌久訳、京都大学学術出版会、2001年、83~84頁)。

【コマ主題細目③】
・鶴見済『完全自殺マニュアル』(太田出版、1993年、とりわけ195頁)。
・南条あや『卒業式まで死にません』(新潮文庫、2004年、とりわけ12頁)。
コマ主題細目 ① 現代日本における死に関する諸言説(死に関して言われていること) ② 古代ギリシアやローマにおける死生観(死や生に関する考え) ③ 自己の死生観の見つめ直し ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 鶴見済『完全自殺マニュアル』や南条あや『卒業式まで死にません』の記述を参考に、死に対してある種の救済(救い)を求める、現代日本における言説の内容を理解する。鶴見のテキストでは、「世界の終焉」ということが一つのテーマになっているが、彼のテキストにおいては、次第に「わたしの死」と「世界の終焉」が結び付けて考えられていくようになっており、最終的に彼は、自らの死後には世界は存続しない、とするような世界観を構想していることが分かる。一方で、南条の日記の記述からは、彼女が死に臨むにあたって、自らをあくまでも社会的存在として把握する傾向が強く、自分自身の死後も世界が存続する、ということを当然の前提としていたことが分かる。この二つの世界観について本講義では繰り返し対比的に論じられることになるが、まずはここでは、「死」という極限的な現象を引き合いに出すと、上のような二つの異なった世界観が構想されうる、という点までを押さえる。
② プラトン(古代ギリシア時代の哲学者)の書いた『ソクラテスの弁明』や、プルタルコス(古代ローマ時代の著述家)の書いた「アポロニウスへの慰めの言葉」(『モラリア』所収)の記述を参考に、「わたし」の死を恐れず、むしろ死を「善いこと」と考える古代の言説の内容を理解する。具体的には、プラトンは、死が眠りのようなものであって、しかも、そうした状態よりも快適に過ごした日々がほとんどないのだとすれば、死というのはたいへんな「儲け物」である、と考えており、他方で、プルタルコスは、死を、神から人間に与えられる最善のものとしてとらえている。こうした思想の系譜は、実は本講義第二部で問題として取り上げる「安楽死」の問題にも直結しているが、ここでは、まずは、現代社会において当然とされているような死を忌避する考えは、必ずしも普遍的なものであるとは言えない、という点まで、上の具体例をもとに理解する。
③ 現代日本や古代ギリシアの死に関する言説を踏まえて、受講生各自が「わたしの死」についてどのような考えをもっているかを、コメントシートに記入することで再確認する。とりわけ、コマ主題細目①で問題となったような、〈「わたしの死」と「世界の終焉」とを全く独立のものとみなす世界観〉(以降これを「世界観A」とする)と、〈「わたしの死」と「世界の終焉」とを結び付ける世界観〉(以降これを「世界観B」とする)との相違を押さえた上で、自らの世界観(自己と世界との関係)はどのようなものであるか、という点を自覚的に反省する。また、コマ主題細目②で取り上げたような、死を、「善きこと」として捉える思想について、そもそも「善く生きる」とはどういうことか、という点を考えつつ、現時点での各自の考えを自覚する。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 救済としての死 ② 死を恐れないこと ③ 神からの報酬(善いことをしたお返し)としての死 ④ 自己と世界 ⑤ 世界観
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:本講義の15回分のコマシラバスの内容を熟読し、講義全体の内容を把握すると共に、今の時点で、分かりにくい点をピックアップしておく。また、各自が「死」についてこれまでに考えてきたことを振り返り、300字程度の文章で表現できるようにする。
復習:今回の講義で扱った二つの世界観(世界観Aと世界観B)の議論について、図を用いながら自らの言葉で150字程度の説明ができるようにする。また、今回の講義で検討した、プラトン『ソクラテスの弁明』やプルタルコス「アポロニウスの慰めの言葉」を各自であらためて読み直し、これらのテキストにおいてどのような主張がなされているのかを、それぞれのテクストについて150字程度で簡単にまとめる。

2 「わたしの死」の問題への導入(2)―「わたしの死」への不安― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、本講義第一部の導入コマの2コマ目であり、19世紀ロシアの作家トルストイの作品を例にとり、自らの死が日常においてどのように捉えられているのか、また死が差し迫ってきた時にそれはどのように変容するのか、という点を、「死への不安」を中心に考察していく。
【コマ主題細目①】
・トルストイ『アンナ・カレーニナ(中)』(木村浩訳、新潮文庫、1972年、とりわけ第五編)。

【コマ主題細目②】
・トルストイ『イワン・イリッチの死』(米川正夫訳、岩波文庫、1928年、とりわけ60~104頁)。

【コマ主題細目③】
・ハイデガー『存在と時間(Ⅱ)』(原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス、2003年、第30節(26~32頁)・第40節(141~148頁))。
コマ主題細目 ① 「わたしの死」と人生の虚しさ ② 「わたしの死」への不安 ③ 死への不安と、何かに対する恐怖の違い ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① トルストイ(19世紀ロシアの作家)の『アンナ・カレーニナ』を読み、「わたしの死」を考えたときに襲われる、人生は何をやっても虚しい、という考えについて理解する。『アンナ・カレーニナ』では、死があるがゆえに人生は何をしても虚しいと考える、虚無主義者のリョーヴィンと、いつか死んでしまうからこそ人生を楽しむべきだと考える、快楽主義者のオブロンスキーが登場する。こうした両者の考えは、一見すると相反するもののように思えるが、いずれも、死を誰にでもやってくる現実的なこととして捉え、時間的には〈現在〉時制に重きを置いている、という共通点もある。それに対して、本講義で次回以降に取り上げるハイデガーの主張では、死はあくまでも「可能性」として考えており、そのことによって、時間性の上では〈未来(将来)〉に重きを置く在り方が可能になる。まずはこの時点では、死に関する捉え方によって、時間性という観点から見て異なった存在様式がありうる、という点を押さえる。
② トルストイの別の作品『イワン・イリッチの死』を読み、「わたしの死」に直面したときに襲われる不安について理解する。この小説の登場人物イリッチは、平凡な日常を過ごしていたところを、突如として自らの死期が近いことを自覚したがために、死への強烈な不安に襲われることになる。そのときイリッチにとって、かつては正確この上ないものと考えられていた「三段論法」の例(カエサルは人間である、人間は死すべきものである、したがってカエサルは死すべきものである、という命題)が、たしかにこれは一般に人間の問題とされるときには本質をついたものであるものの、実は、イリッチ自身は単に一般に人間とされるものの一人である以上に、一人称的な性格をもっているということを自覚したとき、これが不条理な事柄であるように思えてくる。死を三人称的に捉えることと、一人称的に捉えることとの相違を押さえる。
③ ハイデガー(20世紀ドイツを代表する哲学者)による、死への「不安」を、何かに対する「恐怖」と区別する議論を理解する。ハイデガーによれば、恐怖の場合には、「〇〇に対する恐怖」という仕方で、恐怖の向かう先(対象)が存在するものの、不安の場合には、そうした対象が存在しないのだという。ここで言うところの「対象」とは、〈経験可能なもの〉・〈現実的なもの〉のことを指す。そして、死への不安、ということを考えるとき、実は、死とは、〈経験不可能なもの〉・〈可能的なもの〉であるがゆえに、上のような語法における「対象」の内には数え入れられず、そのため、不安において対象は存在しない、ということが言われることになる。ここでは、次回以降の議論に備えて、上のような、不安と恐怖についての捉え方の違いをまずは押さえる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 虚無主義 ② 快楽主義 ③ 不条理 ④ 不安 ⑤ 恐怖
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:本コマで題材として取り上げる、事前に配布された、トルストイの二つのテキスト(『アンナ・カレーニナ』と『イワン・イリッチの死』)を読み、『アンナ・カレーニナ』に登場するリョーヴィンとオブロンスキー、そして『イワン・イリッチの死』の主人公であるイワン・イリッチについて、彼らがどのような考えをもった人物であるのか、それぞれ100文字程度でまとめる。
復習:今回学んだ、トルストイ『イワン・イリッチの死』と、ハイデガー『存在と時間』においては、死を三人称的に捉えることと、死を一人称的に捉えることとの相違、という共通するモチーフが登場する。上の相違とは、いったいどのようなものであるのか、300字程度で説明できるようにする。

3 ハイデガーによる死の分析(1)―だれかに代わりに死んでもらうことはできない?― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。第3回・第4回の講義は、本講義第一部の中心部として位置づけられる。本コマは、その1コマ目である。日常性(非本来性)から本来性へと人間存在の在り方が変容したとき、死には、いくつかの特徴があることが見えてくる。その一つである、死の代理不可能性という性格に本コマではとくに注目して考察する。



【コマ主題細目①】
・ハイデガー『存在と時間(Ⅱ)』(原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス、2003年、第47節(258~266頁))。

【コマ主題細目②】
ハイデガー『存在と時間(Ⅱ)』(原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス、2003年、第51節(293~299頁))。

【コマ主題細目③】
・ハイデガー『存在と時間(Ⅱ)』(原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス、2003年、第53節(311~328頁))。
コマ主題細目 ① 死に関する日常的な捉え方 ② 死の代理不可能性(死は代わってもらうことができないとい うこと) ③ 自己の死の没交渉性(死においては他者との関わりが絶たれているということ) ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 「一般にひとは死ぬものである」という日常的な語りから死が捉えられる際には、自分自身の死もまたそうした「だれかの死」の中の一つとして考えられている、というハイデガーの議論を理解する。日常的に生きる中で私たちは、たいていの場合自らの死と向き合うことをせずにおり、またこのときに私たちは、自らの存在を世間一般の人(これをハイデガーはダス・マンと呼ぶ)の方から理解している(この存在様態はハイデガーによって「非本来性」と呼ばれるものである)わけであるが、しかし彼によれば、死の不安に直面し、自らの死と向き合うようになることで、私たちは自らの存在の固有性を自覚するに至る(この存在様態はハイデガーによって「本来性」と呼ばれるものである)のだという。こうしたハイデガーの議論を、彼の用語を覚えつつ理解する。
② たとえ誰かが身代わりになったとしても、誰かから彼/彼女の死を取り除いてやることはできない、というハイデガーの議論を理解する。コマ主題細目①で学んだように、私たちは日常においては、自分自身を、世間一般の人(「ダス・マン」)の一人として捉えており、実際、私たちの日常的な行いは、可能性という次元で考えれば、たいてい他の誰かに代わってもらうことのできる代理可能なものである。それに対して、「死」ということを考える場合、たしかに、誰かの身代わりになって自らが犠牲になる、という仕方での「代理」ということは想定できるものの、しかし、これは、〈その誰かの死〉そのものを代理する、ということとは区別される。つまり、死については、他の日常的な行為とは異なり、他の誰かに自らのそれを代理してもることができない、という性格をもっている。死の代理不可能性に関するハイデガーの議論について、この点まで押さえる。
③ 「わたしの死」は自らが引き受ける他ないものであり、これと向き合うときには他者との関わりが絶たれている、というハイデガーの考えを理解する。先のコマ主題細目②において、死の代理不可能性という点を学んだところであるが、それによれば、私たちは自らの死を他者に代理してもらうことはできず、自分自身でこれと向き合い、受け入れざるを得ない。その意味で、死という現象に直面するとき、私たちは、自分自身以外の他者や事物への関心の遮断された状態にあり、「単独化」した状態にあると言える。その意味で、死と向き合うとき、私たちは、世間一般の人として自らを捉えるような非本来的な様態を離れ、自己の固有性を自覚した本来的な様態へと移行することになる。ここでは、死に関するこうした特徴を押さえる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 「だれかの死」 ② 「わたしの死」 ③ ダス・マン ④ 死の代理不可能性 ⑤ 単独化
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:事前に配布する、本コマで学ぶハイデガーの議論の抜粋を読み、ハイデガーが「本来性」・「非本来性」と呼んでいる人間の在り方は、いったいどのようなものであるかを、まず理解できたところまででよいので、それぞれ200文字程度でまとめる。
復習:本コマで、ハイデガーの言う「本来性」・「非本来性」について学んだことを踏まえて、予習課題として各自でまとめてきたものを、適宜修正して書き直す。また、ハイデガーによる死についての議論のポイントとして今回学んだ「死の代理不可能性」について、300文字程度で説明できるようにする。その際のポイントは、誰かの身代わりになる、ということと、その人自身の死を代わりに死ぬ、ということとの相違である。

4 ハイデガーによる死の分析(2)―「わたしの死」は経験できない?― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、第一部の中心部の2コマ目である。死の経験不可能性というポイントを中心に、死を、経験可能な現実的なものではなく、経験一般を不可能にしてしまう可能性として理解しようとするハイデガーの議論を検討していく。
【コマ主題細目①】
・ハイデガー『存在と時間(Ⅱ)』(原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス、2003年、第47節(258~266頁)。

【コマ主題細目②】
・ハイデガー『存在と時間(Ⅱ)』(原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス、2003年、第48節(267~278頁))。

【コマ主題細目③】
・ハイデガー『存在と時間(Ⅱ)』(原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス、2003年、第53節(311~328頁))。
コマ主題細目 ① 他者の死の経験不可能性(経験することができないということ) ② 自己の死の経験不可能性 ③ 可能性としての死への関わり ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 前回の講義で検討した、他者から死を取り去ってやることができない、という点について、他者の死の経験不可能性という観点から復習する。前コマのコマ主題細目②においては、私たちは日常的に生きている中で経験することのほとんどは、他者によって代理されうるのに対して、死については、(誰かに身代わりになってもらう、ということは論理的に可能であるものの、)自らの死を他者に代わりに死んでもらうことはできない、という意味で、これは代理不可能である、ということを学んだ。そのことを踏まえて、「死の経験」ということを考えてみると、他者(それが親しい者であろうとそうではなかろうと)が死に赴くのを目の当たりにすることは、私たちにとって当然ありうることであるが、しかし、これは、自己の立場から「他者の死」という経験をしている、ということであるのみであって、他者の死をその人の代わりに経験している、ということではない。当然ながら、私たちは他者の死を、このような意味で経験することは不可能である。まずは、この点を押さえる。
② 「わたしの死」は、そもそも何かを経験するという可能性を「わたし」から奪ってしまうようなものであるため、他者の死だけでなく、「わたしの死」を経験することもできない、というハイデガーの議論を理解する。コマ主題細目①で見たように、「他者の死」を私たちが自らのそれとして経験することは論理的に不可能であるのだが、それでは、私たちは、そもそも自らの死を経験する、ということができるのだろうか。ハイデガーによれば、死は、何かを経験することの可能性を全て奪い去ってしまうものであり、その意味で彼は、死を「不可能性の可能性」と呼ぶ。そうであれば、私たちは、死の後に何かを経験することはできないわけであるから、当然、死後に死について経験することはできない一方で、これも当たり前のことながら、生きている間に死を経験するということも論理的に不可能である。つまり、死とは、私たちの経験の対象ではない、ということになる。
③ 「わたしの死」をけっして現実化することのない可能性として捉え、人間はそのような可能性としての死にいつも関わって生きている、というハイデガーの議論を理解する。コマ主題細目②までの議論を踏まえて考えると、私たちは、自らの死を、現実的に経験することは不可能、ということになる。しかし、そうであれば、私たちにとって死とは何であるのだろうか。ハイデガーはこれを、他の日常的な「もの」・「こと」のように「現実性」という点から捉えられるようなものではなく、むしろ、「可能性」として把握し直そうとする。そして、この可能性とは、私たちが生きるということをそもそも不可能にしてしまうような、極限的な可能性なのである。このような可能性としての死と、私たちは、常に向き合っているわけではないが、日常において死を忘却しているのは、実は死の不安に直面してそこから逃避する、という仕方をしているのであって、死との一つの向き合い方ということになる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 死の経験不可能性 ② 現実性 ③ 可能性 ④ 不可能性の可能性 ⑤ 死からの逃避
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:本コマのコマシラバスを熟読し、前回までに学んだ「死の代理不可能性」ということに加えてハイデガーがポイントとして挙げている「死の経験不可能性」についても、これがいったいどのようなことを指しているのか、事前に分かる範囲のことをまとめておく。具体的には、コマシラバスを読んで分からなかった箇所には青色の線を引いておき、講義内でその疑問を解消していくこと(講義内での積極的な質問を歓迎する)。
復習:「死の経験不可能性」という今回学んだことを踏まえて、ハイデガーが「わたしの死」をいったいどのようなものとして捉えようとしているのか、「現実性」・「可能性」というキーワードを用いながら300字程度で説明できるようにしておく。

5 復習コマ(1)―「わたしの死」と「だれかの死」― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、「わたしの死」について検討する本講義第一部の内容を復習するコマである。第一部の導入として提示した、死に関する現代日本の言説が、ハイデガーの議論を通して見ると、どのように整理されるのかをあらためて確認する。また、これまでの講義の中でポイントとなった、「わたしの死」の本質は日常においては隠蔽される傾向にある、という点を、トルストイとハイデガーの議論のつながりを押さえながら振り返る。
【コマ主題細目③】
・ハイデガー『存在と時間(Ⅱ)』(原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス、2003年、第53節(311~328頁))。
コマ主題細目 ① 「わたしの死」に関する受講生からの意見の検討および精神医学との関わりについての補足 ② ハイデガーの議論に関する、受講生からの疑問点や批判点の検討 ③ 「だれか」の一人として「わたし」を考えることについて ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 本講義の第一部を通して学んだ「わたしの死」に関する受講生の意見の中で、とくに「わたしの死」と「だれかの死」の違いに関連するものを取り上げ、この点についてのクラス全体の理解を深める。その際には、第一回講義のコマ主題細目①で言及した、二つの世界観(世界観A・世界観B)について復習しつつ、これを議論の整理のための道具として用いる。世界観Aとは、自己を世界の中に生きる人々の中の一人として捉えるものであり、この場合には、自己の死によって世界が終焉することはないのであった。それに対して、世界観Bとは、世界という構造を自己に備わったものとして捉えるものであり、この場合には、自己の死と世界の終焉とは同時に生じることになるのであった。第一回講義から、今回までの議論を経て、受講生各自の考えがどのように変容したかにも着目する。なお、ここでは、ハイデガーから影響を受けたメダルト・ボスの主張などをも参照することで、人間存在分析の精神医学との関わりについても補足する
② 第3回と第4回の講義で扱ったハイデガーの議論について、受講生からの疑問点や批判点を検討し、「わたしの死」に関するハイデガーの考えをより正確に理解する。とくに、彼が「わたしの死」の特徴として挙げていたポイントについて、再度確認する。一つは、死の代理不可能性である。私たちが日常的に生きている中では自らの行為を他者に代理してもらったり、あるいは反対に、他者に自らの行為を代理してもらったりすることができるのに対して、死に関しては、そうした代理が不可能であるため、私たちは、世界内の他の事物や他者との関わりの断たれた状態で、自らの死と対峙せねばならないのであった。もう一つは、死の経験不可能性である。私たちは、他者の代わりに当の他者の死を経験することはできず、また、死とは全ての経験可能性を私たちから剥奪するものであるがゆえに自らの死を経験するということも論理的に不可能である。むしろ、ハイデガーによって死とは、あくまでも私たちが向き合うべき可能性として考えられていたのであった。上記のポイントを、あらためて確認する。
③ ハイデガーが、「だれかの死」から「わたしの死」を区別しようとすることの背景には、「わたし」を「だれか」の一人として考えることに対するハイデガーの批判があることを理解する。彼は、世間一般の人の一人として自らを捉えるような在り方(これをハイデガーは非本来性と呼んだのであった)ではなく、むしろ、自己の固有性を自覚した在り方(これをハイデガーは本来性と呼んだのであった)を肯定的に捉えており、こうした考えのゆえに、死という根本現象に関しても、「わたしの死」を「だれかの死」(世間一般の人の死)から峻別することをハイデガーは重視していた。ちなみに、そもそも、上のように自己を世間一般の人から区別しようとする思想の潮流は、西洋近代個人主義の大きな流れの中に位置づけられるものである。これまでの議論を敷衍し、このコマではこの点まで押さえる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 「わたしの死」と「だれかの死」 ② 本来性と非本来性 ③ 死の代理不可能性 ④ 死の経験不可能性 ⑤ 哲学と精神医学
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:本講義の第一回で学んだ、二つの世界観(世界観A・世界観B)の考えを用いて、ハイデガーによる非本来性・本来性の議論を整理しておく。具体的には、図を使用しつつ、これを300文字程度で説明できるようにしておく。また併せて、本コマまでの本講義第一部で学んできたことの中で、理解が不十分な点をまとめておくこと。
復習:トルストイ『イワン・イリッチの死』の内容が、ハイデガーによる(「わたしの死」を「だれかの死」から区別しようとする)議論と、どのような関わりにあるのか、「ダス・マン」というキーワードを用いて、300文字程度で説明できるようにしておく。また、ハイデガーの言うところの死の特徴(「死の代理不可能性」・「死の経験不可能性」)について、500字程度で説明できるようにしておく。

6 「あなたの死」の問題への導入(1)―脳死は人の死か?― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本講義第二部の導入コマの1コマ目である。第二部では、ハイデガーの議論の枠内ではうまく説明することができない「あなたの死」(二人称の死)の問題を検討する。本コマでは、「脳死」に関する議論を手がかりとして、死に関する二人称の視点と三人称の視点について確認する。
【コマ主題細目①】
・アルバート・R・ジョンセン『生命倫理学の誕生』(細見博志訳、勁草書房、2009年、291~308頁)。

【コマ主題細目②】
・柳田邦男『犠牲―わが息子・脳死の11日』(文春文庫、1999年、9~212頁、とりわけ109~150頁、176~212頁)。
コマ主題細目 ① 脳死とは何か ② 二人称の死と三人称の死 ③ 「だれかの死」としての脳死と「あなたの死」としての脳死 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 1年前期必修科目「人間環境学」でもふれたように、「脳死」という考えは、現代医療が発達することにより、脳全体が回復不可能な機能喪失状態に陥っているにもかかわらず、肺や心臓の機能を人工的に維持することが可能になった、という条件のもとに生じてきた考えであり、また、この考えには、「臓器提供」の問題が常に結びついている。つまり、従来の三徴候死(心停止・呼吸停止・瞳孔拡大によって判定される死)よりも、いわば、先取りして死を考えることにより、まだ機能を保っている心臓・肺・肝臓などの臓器を提供することが可能であるというわけである。こうした基本的な脳死に関する知識を復習し、さらに、脳死を人の死とみなすかどうかについて、意見の対立が見られたことにも再度ふれる。
② 1年生前期「人間環境学」では、脳死状態になった家族と向き合う様子が描かれた文学作品(ノンフィクション作家・柳田邦男(1936-)のテクスト)を検討することによって、脳死を人の死とすることにどのような問題があるかを、臓器移植の問題も視野にいれながら理解すると共に、他者の死についての見方には、二人称的な視点と三人称的な視点という二つのものがあることを確認したのであった。二人称的な視点から見たときには、「脳死」は一概に人の死とみなすことができないのに対して、三人称的な視点からは、「科学的合理性」の見地に立ってこれを人の死とみなすことが容易に行われる、ということであった。こうした、死に関する人称性の問題を再確認すると共に、「人間環境学」講義で取り上げた「人工妊娠中絶」の議論も復習し、人の生の始まりについても、二人称・三人称それぞれの視点で異なった考えが可能になる、という点まで再度押さえる。
③ 脳死状態の人から臓器を取り出すのを待機する臓器移植外科医たちの立場と、その脳死状態の人の家族の立場のそれぞれから考えたとき、脳死についてどのような見方の違いが生じるかを、「だれかの死」と「あなたの死」という観点から考える。なお、「だれかの死」を(「あなたの死」ではなく)「わたしの死」から区別しようという考えは、本講義序盤で見たハイデガーの主張であったわけであるが、一方で、ハイデガーの場合には、「他者の死」ということについては、概して「だれかの死」ということで捉えられていたきらいがある。それに対して、脳死の議論を復習することを通して、「他者の死」ということを考える際には、実のところ、二人称的な視点と三人称的な視点があるということ、言い方を変えれば、「誰かの死」と「あなたの死」という異なった捉え方があるのだということを具体的に確かめることができる。ここでは以上の点を押さえ、次コマにおける「安楽死」の議論につなげる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 脳死 ② 三徴候死 ③ 臓器提供 ④ 二人称の死 ⑤ 三人称の死
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:1年前期必修科目「人間環境学」で学んだ「脳死」についての議論を復習しておく。とくに、脳死を死とみなすことの背景にどのようなことがあったのかを重点的に確認し、「臓器移植」の問題との関連から、これについて300文字程度で説明できるようにしておくこと。その際には、「人間環境学」でふれた、オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーによる、「脳死」という考えへの批判を参考にしてもよい。
復習:二人称・三人称のそれぞれから見たときに、「脳死」を人の死とみなすことについて、どのような意見の相違が出てくるか。また同様に、上の二つの視点から見たときに、「人工妊娠中絶」について、どのような意見の相違が出てくるか、それぞれ300文字程度で説明できるようにしておくこと。

7 「あなたの死」の問題への導入(2)―安楽死は認められるべきか?― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本講義第二部の導入コマの2コマ目である。前コマで、「脳死」の問題について考察してきたのに続けて、本コマでは「安楽死」の問題について検討する。とくに、この問題については、安楽死を選ぶ動機の背景にある文化的問題も踏まえて考察する。
【コマ主題細目③】
・宮下洋一『安楽死を遂げた日本人』(小学館、2019年、199~205頁)。
コマ主題細目 ① 安楽死とは何か ② 積極的安楽死と消極的安楽死 ③ 安楽死と日本文化 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 今日の医療技術の発達により、従来であれば死に至っているような病に罹っていても、人工呼吸器などの生命維持装置によって命がつながれている、という状況が増加している。また、完治して元の日常に復帰するという見込みが立たず病床の日数が増えることで、患者本人の心身の苦痛や絶望感が高まったり、看病する家族の疲労感が重なったりするケースもある。そのような中で、患者本人の苦痛や家族の疲労感を考えた上で、患者自らが死を選ぶ「安楽死」が許されるものなのかどうか、近年盛んに議論されている。こうして「安楽死」が議論されるようになった背景を理解した上で、安楽死の条件には、次の三つのものがあることも押さえる。①患者の死期が迫っており、状態の改善が見込めないような病であること。②患者に耐えがたい苦痛があること(鎮痛剤などによる苦痛緩和策を行ったという前提で)。③患者本人の(死を望む意思表示)があること。まずは、上のような安楽死に関する基本的な知識を押さえる。
② 安楽死は、死に至る方法の面から二つに分類されている。一つは、積極的安楽死であり、これは、医師の助けを借りつつ(具体的には、筋弛緩剤や塩化カリウム溶液などの致死薬の投与により)患者が自らの死を選ぶことである。他の一つは、消極的安楽死であり、これは、患者自らの意思によって、積極的に生命をつなぐ治療(いわゆる「延命治療」)を差し控えてもらうか中止してもらうことによって死に至ることを指す(日本国内では、これが「尊厳死」と呼ばれることもある)。日本では、積極的安楽死については禁じられているのに対して、オランダ、ベルギー等少数の国では認められており、米国のいくつかの州とスイスでは、医師による致死薬の投与は認められていないものの、医師が処方した致死薬を患者自らが服用して自死すること(自殺幇助)が合法化されている、という現状がある。以上のような、安楽死に関する、日本国内と海外の状況を理解する。
③ ここでは、安楽死を選んだ日本人の事例を取り上げ、安楽死を選ぶことの動機と、その背景にある文化的バックグラウンドについて検討する。新潟出身の小島ミナは、韓国への大学の留学を経て韓国語を身につけ、翻訳と通訳で生計を立てて暮らしていたが、48歳で、多系統萎縮症(全身の機能が衰えていく難病で、次第に歩くことも話すことも困難になっていく)に罹患していることが発覚する。小島は地元に戻り、姉たち二人に介護してもらうようになるも、その生活が耐え難く、数回の自殺未遂を経て、安楽死を決意する。しかし、(コマ主題細目②で見たように)日本においては積極的安楽死が非合法であるため、外国人の安楽死(正確には「自殺幇助」)を認めているスイスにてこれを遂行することになった。彼女が安楽死を選んだことの背景には、個人の自己決定権により、「よき生」は選択されるべきであり、「よき生」には「よき死」というものが分かちがたく結びついている、という、西洋個人主義的な考えがあった。海外留学の経験などから、小島自身はこうした考えをもっているものの、日本で(消極的)安楽死が選ばれる場合には、「これ以上家族に負担をかけたくない」といった、共同体の中で生きる一人の人間として自己を捉える見方が、その背景にあるケースが多い。このように「安楽死」の問題を見ていくことで、死を、個人のものとみなすのか、共同体の中におけるものとみなすのか、という文化的背景が、安楽死の問題には抜き差し難く結びついている、という点を押さえる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 積極的安楽死 ② 消極的安楽死 ③ 自殺幇助 ④ 自己決定権 ⑤ 共同体
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:高等学校「倫理」あるいは「現代社会」の教科書を読み、「安楽死(尊厳死)」とはどのようなものであり、現在いかなる倫理的な問題が指摘されているのかを振り返っておく。その際には、とくに「積極的安楽死」と「消極的安楽死」との区別に注意し、日本においては、この二つの「安楽死」が現状でどのように扱われているかを押さえておく。ちなみに、「尊厳死」という言葉は、日本に特有のものであり、これは実質的には「消極的安楽死」を指しているため、「安楽死」と「尊厳死」は概念的に区別されるといった教科書の記述については誤りであるから、注意すること。
復習:「安楽死」の問題について、とりわけ「積極的安楽死」を認めることには、どのような倫理的な問題が発生すると考えられるか、本講義で学んだことを踏まえて(さらに別の論点を加えてもよい)200文字程度で説明できるようにしておくこと。

8 ジャンケレヴィッチにおける死の問題―「わたしの死」、「あなたの死」、「だれかの死」― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、本講義第二部の3コマ目である。今回より「あなたの死」についての検討の本論部分に入る。また、今回検討する、死の人称性についての議論は、本講義を通して登場する、「死」に関するいくつかの見方を整理するためにも重要である。
【コマ主題細目①】
・ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ『死とはなにか』(原章二訳、青弓社、2003年、13~14頁)。

【コマ主題細目②】
・ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ『死』(仲澤紀雄訳、みすず書房、1978年、24~36頁)。

【コマ主題細目③】
・ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ『死』(仲澤紀雄訳、みすず書房、1978年、24~36頁)。
コマ主題細目 ① 三人称の死と一人称の死 ② 二人称の死 ③ 「私たち(一人称複数)の死」 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① ジャンケレヴィッチは、「わたしの死」(自分自身の死)のことを「一人称の死」と呼ぶ一方、死者数の統計データのように、どんな人物が死んだかということが問題とならないような「だれかの死」を、「三人称の死」と呼んでいる。ジャンケレヴィッチの考えでは、例えば一人の医者が自分の病気を検討する場合に(「病人医者の例」)、病人である自分が医者である自分に譲歩しているようなケースでは、自分自身の死が、他の対象と同様に、医学、生物学、社会、人口統計の観点に立って記述・分析される一つの対象(「三人称の死」)として捉えられるのに対して、反対に、医者である自分が病人である自分に譲歩しているようなケースでは、自分自身の死が、他の全ての人と同様に悲劇的な苦悶の源泉もの(「一人称の死」)として捉えられ、それから距離をとることができなくなるのだという。以上のような、「一人称の死」と「三人称の死」についてのジャンケレヴィッチの議論をまずは押さえる。
② ジャンケレヴィッチの考えでは、「あなたの死」(二人称の死)とは、主体性をもつ一人称の死と、対象性をもつ三人称の死との間に位置づけられるものなのだという。彼によれば、こうした二人称の存在は、私たちが虚無と向き合うことから守ってくれているのであるが、しかし、親しい他者の死(二人称の死)を経験することによって私たちは、(「今度はわたしの番だ」という形で、)他ならぬ自分自身の死と、つまり虚無と対峙せねばならなくなる、とされる。その意味でジャンケレヴィッチにおいては、二人称の死とは、三人称の死から一人称の死への通路としての役割を果たすものであると共に、他人事として対象的に把握できる三人称の死と、自らのこととして直接対峙せねばならない一人称の死との間の、いわば中間的な性格のものとして位置づけられている、という点まで理解する。
③ コマ主題細目①で見てきたように、ジャンケレヴィッチの考えでは一人称の死とは、悲劇的な性格を帯びたものであり、自ら自身で向き合う他にないものなのであった。しかし一方で、一人称の死とは誰にでもあてはまる問題であり、人間の誰もが自らのことを「わたし」と呼ぶものであるがゆえに、これは当然のことのように思える。このようにして考えてみると、一人称の死には、自分自身にしか理解できない固有のもの、という性格があるのにもかかわらず、その性格そのものは普遍的に誰にでも該当する、ということになる。これをジャンケレヴィッチは、自己が遠近法の中心であるという感情と、人の数だけその中心は存在するという感情との葛藤という仕方で描き出しており、「「わたし」が定義そのものからして常に単数形であるというのが真実であり、しかも、複数というのは必然的に他者に適用されるものであるのならば、「われわれ」とは、一種の怪物なのである」としている。このような「一人称複数」にまつわる論理的な問題を、本講義第一回のコマ主題細目①で学んだ二つの世界観の考えを道具として理解する。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 一人称の死 ② 三人称の死 ③ 病人医者の例 ④ 二人称の死 ⑤ 一人称の死と一人称複数の問題
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:事前に配布するジャンケレヴィッチのテキストを読み、彼が二人称の死をどのようなものとして考えているのか、一人称の死・三人称の死というキーワードを用いて、300字程度で説明できるようにしておく。
復習:本コマで学んだジャンケレヴィッチの議論を踏まえて、「一人称の死」・「二人称の死」・「三人称の死」という用語を用いて、これまでの本講義で学んだ内容のうち、とくに序盤で検討したハイデガーによる議論の概要をまとめておくこと。また、本コマの最後に学んだ「一人称複数」の問題について、彼は「わたしの死」にまつわる「一人称複数」の問題としてどのようなことを指摘していたのか、300字程度で説明できるようにしておくこと。

9 レヴィナスのハイデガー批判―「わたしの死」よりも「あなたの死」が重要?― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本講義第二部の4コマ目である。前コマにおいて三つの死についての関係を整理してきたことを受けて、このコマでは、とくに「わたしの死」と「あなたの死」の関係を、レヴィナス(1906-1995、ユダヤ人哲学者)の議論を参考にしながらいっそう詳しく検討する。
【コマ主題細目②】
・エマニュエル・レヴィナス『神・死・時間』(合田正人訳、法政大学出版局、1994年、9~73頁、とりわけ16~30頁、53~57頁)。

【コマ主題細目③】
・エマニュエル・レヴィナス『神・死・時間』(合田正人訳、法政大学出版局、1994年、9~73頁、とりわけ16~30頁、53~57頁)。
コマ主題細目 ① レヴィナスのハイデガーへの批判 ② 「あなたの死」と応答のなさ ③ 他者の二重性 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① ハイデガーの議論においては、「わたしの死」と「だれかの死」のみしか問題とされておらず、むしろ「あなたの死」を問題とすることなしに「わたしの死」は理解されえない、というレヴィナスの主張を理解する。本講義序盤で見てきたハイデガーの議論では、世間一般の人(ダス・マン)の一人として自己を捉えることにより、「わたしの死」を「だれかの死」と同一のものみなすことが厳しく批判され、むしろ、自己をダス・マンとしては捉えず、自己の固有性を自覚することにより、「わたしの死」のもつ独自な性格が浮き彫りになってくるとされていた。それに対して20世紀フランスの哲学者であるレヴィナスは、ハイデガーの議論では、「他者の死」は全て「だれかの死」(ダス・マンの死)として捉えられてしまっているが、実際には、「他者の死」には、「だれかの死」とみなされるものの他にも、親しい他者の死(「あなたの死」)と言うべきものが存在することを強調し、二人称の死に着目して自身の主張を展開している、という点を理解する。
② その人(「あなた」)に対して語りかけても応答がないという、絶望的な「わたし」と「あなた」の非対称性(関係が対称でないこと)を、「あなたの死」のポイントとするレヴィナスの議論を理解する。他者の死を考えるにあたって、レヴィナスの念頭にあるのは、ホロコーストによってナチスの強制収容所で死んでいった無数のユダヤ人たちである。こうしたことを背景に彼は、先にコマ主題細目①で見たようなハイデガーへの批判を展開し、「わたしの死」を根源的なものとみなすのではなく、むしろ第一に考えられるべき本来の死は、他者の死であると主張している。そして、レヴィナスによれば、私たちが他者の死に直面するとき、私たちは、「彼は無になったがそれを語る私は無ではない」という事実に直面することになるのだという。これはつまり、私は「他者Aは死んでしまった」と語ることができるのに対して、Aからは応答がないということであり、こうした応答がない者に対して語りかける、絶望的な非対称性こそが本来の死である、というレヴィナスの議論を理解する。
③ 他者は次のような二重の意味をもっている、とレヴィナスは考える。それは、①私にとっての他者、②その人自身としての他者、という二つの性格である。本講義でこれまでに思考の補助線として用いてきた二つの世界観(世界観Aと世界観B)の考えをここでも導入して考えてみると、上の①は、いわば他者を〈わたし〉の世界(世界観B)の登場人物であるとみなす考えであるのに対して、②は、むしろ他者もまた世界観Bをもっていたものとみなす考えであると言える。そして、レヴィナスによれば、他者が死にゆく際には、他者が②の意味をもっていたということの重みが、私たちに迫ってくるのだという(ここでは、「殺さないでくれ」と語る他者の眼が引き合いに出される)。以上のような、他者のもつ二重の性格についてのレヴィナスの議論を理解する。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 「あなたの死」 ② ダス・マン ③ ホロコースト ④ 応答の非対称性 ⑤ 世界観
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:高等学校「世界史」の教科書を読み返し、ナチス政権によるホロコーストがどのようなものであったかを復習しておく。また、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』の部分抜粋を事前に配布するので、これを各自で読み、考えたことを300字程度でまとめておくこと。
復習:今回のコマで学んだレヴィナスの議論について、本講義でこれまでに使用してきた二つの世界観(「世界観A」・「世界観B」)の考えを用いて、レヴィナスが二人称の死についてどのような特徴を認めているのかを300字程度で説明できるようにしておくこと。また、レヴィナスは、ハイデガーの死に関する議論を批判しているが、レヴィナスのハイデガー批判のポイントはどこにあったか、200文字程度で説明できるようにしておくこと。

10 復習コマ(2)―「あなたの死」についての復習― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、本講義第二部の復習コマである。第6回から第9回までに検討してきた「あなたの死」についての議論を振り返り、これまでにポイントとなった、死の人称性の議論を再確認する。その中で、ジャンケレヴィッチの述べていた「一人称複数の死(わたしたちの死)」に関する主張も、これまでの内容の応用として検討する。
【コマ主題細目②】
・松田純『安楽死・尊厳死の現在―最終段階の医療と自己決定』(中公新書、2018年、204~210頁)。
コマ主題細目 ① 第6回から第9回までの講義に関する受講生からの疑問点の検討 ② 安楽死と「すべり坂」の問題 ③ レヴィナスやジャンケレヴィッチの議論と二つの世界観の問題 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 「あなたの死」に関するこれまでの議論について、他の受講生がどのような疑問をもったかを理解し、それに対する教員からの応答も踏まえて、「あなたの死」に関する自分の考えを深める。二つの世界観という補助線を用いながら、自らの考える「あなたの死」がどのようなであるかを自己反省しつつ表明することで、受講生同士の共通理解を図る。とりわけ、他者もまた世界観Bをもつ、という発想に立つのか、むしろ、他者は「わたし」のもつ世界観Bの中の登場人物にすぎない、という考えに立つのか、あるいは、「わたし」も他者も共に、世界観Aで考えられているところの世界の一員にすぎない、とみなすのか、という点が、二人称の死に関する各自の考えを検討する際のポイントになる。
② 第七回の講義で取り上げた安楽死の問題について、安楽死の合法化に反対する人々が、しばしば、安楽死の合法化がナチス時代におけるT4作戦(医療を専門とする審査員団が精神障害や知的障害をもつ患者に対して「生きるに値する者」とそうでないものの「審査」を下し7万人以上の人々を「安楽死」させたもの)のような事態を引き起こしかねない、という点を、反対の理由に挙げていることを押さえる。これは、本人の自発的な意志による安楽死から、外部からの強制による非自発的な安楽死へと、「安楽死」の考えが拡大することへの危惧である、と言える。こうした議論は、「すべり坂」論と言われ、安楽死の合法化を推進する人々も大いに気にかけている問題であり、「すべり坂」が生じていないかどうか、という点が、安楽死法の運用評価の面でも非常に重要視されている、ということまで応用的に理解する。
③ ジャンケレヴィッチの議論を振り返ることによって、「あなたの死」と「わたしの死」は、「わたしたちの死」という共通の捉え方から理解することもできるという点を再確認し、さらに、このようにして「わたしの死」を「わたしたちの死」の一つとして捉えることと、ハイデガーが拒否していたような、「わたしの死」を「だれかの死」の一つとして捉えることとは、どのように異なるのかを考察する。その上では、これまでに本講義の中で繰り返し用いてきた二つの世界観についての考えを、応用的に用いることになる。具体的に言えば、「わたしの死」という視点が他者にも存在するということ(すなわち他者も世界観Bのような視点を持ちうるということ)を(レヴィナスのように)認めるとすると、実はそこでは、論理的には、世界観Bに固有の、自らの死と世界の終焉が一致するという性質が失われてしまっており、むしろ、世界観Aのように自己を世界内の存在者の一人とみなす視点に接近している、ということである。こうした論理的な問題を、図を用いながら理解する。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 世界観 ② 安楽死 ③ 「すべり坂」の議論 ④ T4作戦 ⑤ 意志
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:第六回から前回までの本講義において扱った内容(「脳死」の問題・「安楽死」の問題・ジャンケレヴィッチの議論・レヴィナスの議論)のそれぞれについて、各回のコマシラバス及び配布プリントを読み直し、不明な点がないかどうか確認しておく。また、各議論について、これらが、本講義でこれまでに道具として用いてきた世界観(「世界観A」・「世界観B」)の考えを補助線とすることで、どのようにまとめるができるのかを考えておく。
復習:「安楽死」を合法化することに反対する人々が、反対の主要な理由としている「すべり坂」の問題について、これがどのようなものであるのか、「自発性」・「強制」という二つのキーワードを用いて300文字程度で説明できるようにしておくこと。

11 田辺元の「死の哲学」―死者とどのように関わるか― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、本講義第三部の1コマ目として、田辺元(1895-1962、日本の思想家)による「死の哲学」について検討する。『碧巌録』の公案を引き合いに出しつつ、「生」/「死」の二分法的思考を批判する田辺の主張を押さえた上で、彼の言うところの「死復活」に関する議論を検討する。
【コマ主題細目①】
・田辺元「メメント モリ」(『死の哲学』(岩波文庫、2010年、11~29頁)所収)。

【コマ主題細目②】
・田辺元「メメント モリ」(『死の哲学』(岩波文庫、2010年、11~29頁)所収)。

【コマ主題細目③】
・田辺元「メメント モリ」(『死の哲学』(岩波文庫、2010年、11~29頁)所収)。
コマ主題細目 ① 田辺の問題意識―メメント・モリ ② 田辺による「死復活」の議論 ③ 「死復活」と「実存協同」 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 本コマでは、晩年の田辺元が残している、死についての独自の思索を検討する。そこで参照する主なテクストは、『メメント モリ』である(田辺のこの著作の背景には、自身の最愛の妻・田辺ちよの死があるとも言われている)。田辺の問題意識は、西洋には古くから「メメント・モリ」(ラテン語で「死を忘れるな」の意)という句があるが、田辺はこれを、旧約聖書詩篇第90第12節(「われらにおのが日をかぞえることを教えて知慧の心を得さしたまえ」)に由来するものと考える。つまり、これは、人間は自らの生の短きこと、死の一瞬にして来ることを知れば、ただしく神に仕える賢さを身につけることができる、だから死を忘れないように人間を戒めよ、という、モーゼによる神の祈りである。田辺は、「メメント・モリ」という戒告には、このような意味が結晶していると考える。しかし、現代社会を見渡してみるならば、私たちはこのような「死を忘れるな」という戒告によって知恵の心を有するどころか、むしろ、これを忘れ逃れようとしており、娯楽番組や歌謡曲に一時の慰めを求める現代人にとっては、「死を忘れよ」が標語としてふさわしいのではないか、と皮肉を述べている。上のような、死を忘れ、刹那的な快楽に身をゆだねようとすることを戒める田辺の問題意識を押さえる。
② 田辺は禅で用いられる公案(修行のための課題のようなもの)(『碧巌録』所収)を引き合いに出している。その公案の内容は、次のようなものである。唐の時代の僧・漸源(ぜんげん)が、身内の不幸に悲しむ人をどう慰めればよいかと、師の道吾(どうご)に向かって、「生きていると言うべきか、死んでいると言うべきか」と問うものの、これに対する師・道吾の答えは、「生きているとも死んでいるとも言うまい」というものであった。何度問うても明確な答えを与えない師・道吾を、ついに僧・漸源は打ってしまい、道吾は他界することになるが、その後漸源は、師・道吾の言葉が、生と死は本来不可分離(分けることができない)であるということを自覚していなかった自分に対する、深い慈悲であったことに気づくことになる。このような公案の内容を引き合いに出して、田辺が、人の「生」と「死」は、客観的事実として「あれかこれか」と二者択一的に判定することのできるものではない、と主張していることを押さえる。
③ コマ主題細目②では、『碧巌録』所収の公案を手がかりに、生と死の二分法を否定していたことを見てきたが、先の公案には、もう一つポイントがある。それは、最終的に弟子の漸源は、師・道吾の伝えようとしていたことに気づくと同時に、師の深い慈悲がいまも自分自身に働いており、その意味で、道吾はその死にもかかわらず復活して自分の内で生きていることを自覚する、という点ある。この内容を受けて田辺は、愛によって結ばれている両者の場合には、いわゆる「死者」であるところの他者が自己の中で実存協同によって復活し(「死復活」)、なお働き、共に生き続けることがあると主張している。ここでの田辺の議論の要点は、他者の生死は、自然現象のように客観的に決定されるもの(=三人称的なもの)ではなく、むしろ、自分自身の内における当の他者との関わりの中で自覚されるもの(=二人称的なもの)である、という点である。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① メメント・モリ ② 生と死の二分法 ③ 実存協同 ④ 死復活 ⑤ 死に関する二人称的な視点・三人称的な視点
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:事前に配布された田辺のテキストを読み、「メメント・モリ」というラテン語の警句がどのような意味であり、また、この警句を田辺は、旧約聖書詩篇第90第12節の(「われらにおのが日をかぞえることを教えて知慧の心を得さしたまえ」)という言葉と、どのように関連づけて考えているのかを200字程度でまとめておく。さらに、現代の私たちの生活を振り返り、この「メメント・モリ」という警句が現代文明に生きる私たちにとってどのような意味をもっているのかを200字程度で考えておく。
復習:本コマの講義の中で取り上げられた『碧巌録』の公案を、田辺はどのように解釈していたのか、彼のタームである「死復活」という言葉を用いながら、300字程度で説明できるようにしておくこと。

12 和辻哲郎のハイデガー批判(1)―「なかま」の中での死― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に、日本の思想家による死についての議論を検討する本講義第三部の2コマ目である。ハイデガーの議論の復習を行った上で、これを批判する和辻哲郎の議論の検討を開始する。
【コマ主題細目②】
・和辻哲郎『倫理学(一)』(岩波文庫、2007年、333~334頁)。

【コマ主題細目③】
・和辻哲郎『倫理学(一)』(岩波文庫、2007年、333~334頁)。
コマ主題細目 ① ハイデガーによる「わたしの死」についての分析の復習 ② ハイデガーの死の分析に対する和辻哲郎(1889-1960、日本の思想家)からの反論 ③ 個人の立場における「死への存在」と、社会の立場における「生への存在」 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 本講義第一部で検討した、ハイデガーによる死の分析では、「だれかの死」を典型として死を考えることが拒否されており、あくまで「わたしの死」が問題になっていたことを再確認する。すなわち、ハイデガーによれば、私たちは日常的に生きる中では自己自身を世界内に存在する人々の一人としてみなしており、その上で自己の死を考えるため、畢竟するところ「わたしの死」とは「だれかの死」とみなされている、ということであった。しかし、彼によれば、「わたしの死」とは本質的にはそのようなものではなく、むしろ、死への不安に直面し、自己自身を世間一般の人からは区別される存在とみなすとき、「わたしの死」とは、他者との関わりが一切問題とならなくなるような、自己に最も固有なものとみなされる、とされた。ここまでの点を復習して理解する。
② 和辻哲郎によれば、ハイデガーによる死の分析が扱うことができるのは、あくまで「個人の死」のみであり、「臨終」、「通夜」、「葬儀」といった出来事を含む「人間の死」一般を問題にすることはできないのだという。コマ主題細目①で見たように、ハイデガーは、「死」を徹頭徹尾個人における出来事とみなしており、絶対に他者の参与できないようなものとみなしている。それに対して、和辻は、むしろ死は「誕生」や「結婚」と共に人間共同体における出来事なのであって、これは万人の参与することのできる最も公共的な出来事なのだと反論する。その理由として和辻は、死があくまでも公共性を欠いた独自のものである、と、ハイデガーのような考え方をするならば、人々は死について語り合う事も出来ないはずであるが、実際には「臨終」、「通夜」、「葬儀」といった形で死は共有されている、という点を挙げていることまで理解する。
③ 第4回で検討したような、ハイデガーにおける死への先駆(「死への存在」)の議論は、和辻によれば、これは個人の立場における見方であって、社会の立場から見れば、ある「だれか」が死を迎えるということは、むしろ人間同士の関係性が生まれ変わること(「生への存在」)として考えられる、ということを理解する。つまり、個人の立場から見て誰かが死ぬ、ということは、社会の立場から見れば、その共同体が新たに生まれること、とみなされる、ということである。和辻の言葉では、このことは、「人は死に、人の間は変わる。しかし絶えず死に変わりつつ、人は生き人の間は続いている。それは絶えず終わることにおいて絶えず続くのである」と表現されている。この和辻のテキストを手がかりに、上のようなレベルまで考察する。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 「わたしの死」と「だれかの死」 ② ダス・マン ③ 個人における死 ④ 共同体における死 ⑤ 「死への存在」と「生への存在」
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:本コマで扱う和辻の議論の前提となっている、ハイデガーによる死に関する議論について振り返っておく。具体的には、彼は、「わたしの死」を「だれかの死」から区別することに重点を置いていたわけであるが、こうした議論の要点を、「本来性」・「非本来性」・「ダス・マン」という三つのキーワードを用いて300字程度で説明できるようにしておくこと。
復習:本コマで扱った和辻の議論について、彼によるハイデガーに対する批判のポイントを、「個人」・「共同体」というキーワードを用いて300字程度で説明できるようにしておくこと。また、「人は死に、人の間は変わる。しかし絶えず死に変わりつつ、人は生き人の間は続いている。それは絶えず終わることにおいて絶えず続くのである」という和辻の言葉について、これはどのようなことを表現しているものなのか、200文字程度で分かりやすく説明できるようにしておくこと。

13 和辻哲郎のハイデガー批判(2)―間柄(あいだがら)的存在としての人間― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、本講義第三部の3コマ目である。前コマに引き続き、死に関する和辻の議論を検討する。また、前コマで確認したハイデガーに対する批判の背景にある、和辻の人間観がどのようなものであるかについても確かめる。
【コマ主題細目①】
・和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(岩波文庫、2007年、18~29頁)。

【コマ主題細目②】
・和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(岩波文庫、2007年、18~29頁)。
コマ主題細目 ① 和辻哲郎による「情死」(心中、男女が合意の上で自殺すること)についての議論 ② 和辻哲郎による「間柄(あいだがら)」的存在(人間同士の関係性の中で生きる者)としての人間理解 ③ ハイデガーと和辻の議論の違いの背景 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 和辻は、「情死」を、肉体性や生命性を否定する日本人に特有の死の在り方としており、こうした和辻の議論には、他者との関係の内に自己の死を捉えようとする傾向がある。和辻は、人間共同体ということを考える上では、二人の人間がいれば、そこには既に「二人共同体」が成立していると考える。そのため、人間の共同体的な在り方を重視する和辻にとっては、「情死」とは、個人の死ではなく、むしろ共同体的な在り方をしている人間に特有の死として捉えられ得るものであるがゆえに、(二人共同体よりも上位の共同体の倫理からみればそれは望ましくないものであるとしても、)一定の評価のできるものとみなされることになる。和辻自身のテキストでは、「たといそれが人間の男女としての役目のゆえに他のあらゆる役目を蹂躙するという意味において人間の道をはずれているとしても、それによって日本的なる恋愛の特性を示していることには変わりはないのである」とされており、これを上のような視点から読解し、理解する。
② 和辻は、人間が「なかま」の中で生きている存在であるということ(これは和辻によって「間柄」的存在と呼ばれる)を、日常的な事実として捉えており、さらには「人間」という語の使用法によってもそれを裏づけようとしている、ということを理解する。例えば、「わがすることを人間の人のほめあがむる」(『大鏡』)という言や、「人間万事塞翁が馬」(謡曲『綾鼓』)という言においては、「人間」とは、個体的な人のことを指しているのではなく、むしろ、「世間」・「世の中」といった意味のことを表現していると考えられる。それに対して、むしろ西洋語で「人」を表す、anthropos(ギリシア語)、homo(ラテン語)、man(ドイツ語)、Mensch(ドイツ語)などは、あくまでも個人としての人のことを表しているのだという。その意味で、和辻は、西洋とは異なり日本においては、人を孤立的な存在とはみなさず、むしろ共同体の中に生きる存在としてみなす伝統的な見方があり、後者の方が日常的な事実に適うものとしている、という点まで理解する。
③ 和辻とハイデガーによる、死に関する議論の違いの背景には、ハイデガーが「わたし」を「なかま」の一人として捉えることに対して否定的であったのに対して、和辻は、「わたし」はあくまで「なかま」の中にいてこそ「わたし」なのだと考えている、という違いがあることを理解する。その背景には、ハイデガーの場合、西洋近代個人主義の歴史的な伝統があり、それ以上分割不可能なもの(individual)としての個人に基礎を置く思想伝統を、彼もまた継承していると言える。それに対して、和辻の場合には、コマ主題細目②で見てきたように、個人よりもむしろ共同体に生きる存在として人を捉えようとする傾向が強く、そうした歴史的社会的な背景のもとに、これまでに見てきたような主張を展開していた、ということである。和辻とハイデガーそれぞれの主張のバックグラウンドにあるものを、このレベルまで理解する。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 情死 ② 二人共同体 ③ 間柄的存在 ④ 人間 ⑤ 個人主義
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:事前に配布された、「情死」(心中)に関する和辻のテキストを読み、彼がこれを「情死」をどのような理由で肯定的に捉えているのか、300文字程度でまとめておくこと。また、受講生各自で、「情死」(心中)の扱われた文芸作品・映像作品を調べ、その描かれ方がどのようなものであるか、他の受講生に紹介できるように準備しておくこと。
復習:ハイデガーと和辻の議論の対立が生じたことにはどのような背景があるのか、「個人主義」・「共同体」という二つのキーワードを用いて300字程度で説明できるようにしておくこと。また、「共同体」の中で生きる存在であることを重視する和辻の議論は、現代の日本社会にはどのように当てはまるのか、自分の考えを200文字程度で述べられるようにしておくこと。

14 柳田国男の「先祖の話」―日本における死後の観念と先祖の信仰― 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、本講義第三部の4コマ目である。前コマで検討した田辺の議論において、「死者」と私たちとの関わりが述べられていたことを受けて、このコマでは、その具体例として、柳田国男(1875-1962、日本の民俗学者)による民俗学的考察(一般の人の日常における生活文化と、その歴史的変遷についての、民間伝承を主な手がかりとする考察)を検討する。
【コマ主題細目③】
・柳田国男『先祖の話』(角川ソフィア文庫、2013年、第77節「生まれ替わり」)。
コマ主題細目 ① 柳田の問題意識 ② 「氏神信仰」と「生まれ替わり」 ③ 柳田の議論と「実存協同」・「死への存在/生への存在」 ④ ― ⑤ ―
細目レベル ① 日本の民俗学の草分け的存在とも言える柳田国男が、『先祖の祭』を執筆し、祖先の霊魂に関する伝承を世に広く伝えようとしたことの動機には、その執筆時期(1945年)に発生した「東京大空襲」(死者八万人以上)があると言われる。靖国神社に代表されるような「国と府県」の「晴の祭場」だけでは死者を鎮魂するのに不十分であり、「家としての新たなる責任、そうしてまた喜んで守ろうとする義務は、記念を永く保つこと、そうしてその志を継ぐこと、及び後々の祭を懇ろにすること」であると考える柳田は、元来日本において死者の霊魂が、先祖あるいは氏神として家々で祀られてきたことを、日本の民間伝承に探ろうとする。ここではまず、柳田の上のような問題意識を押さえる。
② 柳田によれば、伝統的に日本の各地域・村落には、「お宮さま」と呼ばれる、森や林にかこまれた小さな神社があり、こうした神社に祀られている神(これが「氏神」・「御先祖様」と呼ばれる)に対する信仰が「氏神信仰」と呼ばれるものであるという。そして、「氏神信仰」における「氏神」とは、その地域の人々の祖先の霊魂を神としてまつったもの(「御先祖様」)であり、しかも、それは初代の祖先の霊のみではなく、代々の祖先の霊が融合一体化したものである、とされる。ただし、氏神信仰においては、死者の霊は、氏神に融合していくものだけではなく、同じ家系の子供に生まれ替わるものもあると考えられており、このような「生まれ替わり」の思想において、「先祖」や「死者」への信仰と、「子を大事にするという感覚」が、重ね合わせて考えられてきたのだと柳田が指摘していることを理解する。
③ コマ主題細目②までに見てきた柳田の議論に基づいて考えてみると、日本においては、「氏神」という、自分たちの祖先の霊魂が祀られている「お宮」を中心に、地域社会の「横」のまとまりが保持されてきており、また一方で、「氏神」にならなかった死者が子供に「生まれ替わる」ものと信仰されることで、世代間の「縦」のつながりも強められてきた、ということになる。これについて、本講義の後半に学んできた和辻や田辺の議論を補助線にして整理すると、次のようなことが言える。すなわち、信仰という形での死者との交わり(田辺の言葉で言えば「実存協同」を通して、私たちの社会や共同体は維持され、更新されてきたのであり、これは、和辻が、個人から見た「死への存在」は、社会から見れば「生への存在」である、と言ったことの具体例である、ということになるだろう。以上のようにして、柳田の議論は、和辻や田辺の議論の具体的な例としても捉えることができる点を押さえる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 氏神信仰 ② 先祖 ③ 生まれ替わり ④ 実存協同 ⑤ 「死への存在」と「生への存在」
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:事前に配布された柳田のテキストを読み、彼が『先祖の話』を執筆した動機として、死者の鎮魂には、「家としての新たなる責任、そうしてまた喜んで守ろうとする義務は、記念を永く保つこと、そうしてその志を継ぐこと、及び後々の祭を懇ろにすること」が重要である、と述べていることの背景について、200文字程度でまとめておく。また、自らの出身地域における「氏神」(「ご先祖様」)に関する民間伝承があれば、これを他の受講生に簡単に説明できるようにしておく。
復習:「氏神信仰」に関する柳田の議論は、田辺による「実存協同」の考えや、和辻による「死への存在/生への存在」の考えを補助線にすると、どのように整理することができるか。300文字程度でまとめておくこと。

15 まとめ 科目の中での位置付け 本講義は、次の三部から構成される。第一部(第1回~第5回)では、ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガー(1889-1976)の議論を中心に、「わたしの死」について検討する。第二部(第6回~第10回)では、生命倫理の具体的問題を視野に入れつつ、とくに「あなたの死」について考えていく。第三部(第11回~第15回)では、日本人の思想家たちにスポットライトを当てつつ、「なかま」の中での死(共同体における死)を中心に検討する。本コマは、本講義全体のまとめのコマである。第三部の内容に関する受講生からの疑問点への回答をした後に、「死」に関する様々な議論を「生」との関係から整理する。また、履修判定指標をあらためて確認した上で、本講義全体の中でポイントとなる議論を復習する。
【コマ主題細目②】
・阿部謹也『「世間」とは何か』(講談社学術文庫、1995年、11~30頁)。
コマ主題細目 ① 一人称・二人称・三人称の死 ② 「死」の個人的性格と共同体的性格 ③ 生命倫理の問題と二つの生(ビオスとゾーエー) ④ ⑤ ―
細目レベル ① 本講義で学んできたことを、死の人称性という観点から、総復習する。本講義の前半でポイントとなったハイデガーの議論では、一人称の死に重きが置かれており、彼は、世間一般の人の死(三人称の死)から一人称の死を峻別しようとしていたわけであるが、これに対して、本講義の後半で見た和辻の議論では、むしろ、死の一人称的な性格よりも、むしろ三人称的な性格が重視されていたと言うことができる。また、本講義の中盤に見た、レヴィナスやジャンケレヴィッチの議論では、ハイデガーが一人称の死を強調するあまり、他者の死を全て三人称の死として捉えてしまっていたことを批判し、むしろ、二人称の死の重要性を指摘していたのであった。以上のように、死の人称性ということを一つの補助線にして、15回の講義で学んだ思想を整理して理解する。
② コマ主題細目①に続いて、次に、死の個人的性格と共同的性格という観点から、これまでの本講義の内容を整理していく。日本の思想家たちの「死」に関する議論や、柳田国男が記述した一般の日本人たちの「死」についての信仰からは、日本文化においては、死の個人的性格を強調するよりも、死をむしろ「なかま」の中での死と捉え、死の共同的性格に重きを置く傾向があることがうかがえる。ここには当然ながら、日本人には、西洋近代的な個人主義とは異なり、私たちが共同体において生きている存在であるという点を重んじる、歴史的・社会的な背景のあることが深く関わっている。それに対して、ハイデガーは、西洋近代個人主義的な思想潮流を継承し、死の個人的性格を強調しようとしていたと言える。ちなみに、西洋個人主義においては、神への服従と、個人の自由意志がコインの裏表のようにみなされており、神という超越者の存在によって、個人の自由意志が保証されていたと言えるわけであるが、他方ハイデガーの生きた20世紀においては世俗化が広がってきており、いわば彼は〈神なき時代の個人主義〉を死の議論を通して再構築しようとしていたとも考えられる。このように、死の個人的性格と共同的性格ということを補助線に、これまでの講義の内容を整理して理解する。
③ 本コマの最後に、履修判定指標に目を向けながら、これまでの講義内容のポイントを再度押さえる。既にコマ主題細目①・②において、ほとんどのポイントは拾うことができているが、一点、脳死と安楽死についての、教義の生命倫理的な問題については、本コマではここまでにふれることができていなかったため、あらためて確認しておきたい。ここまでの講義展開に時間的ゆとりがあれば、前期必修科目「人間環境学」で学んだ、古代ギリシアにおける二つの生(「ビオス」と「ゾーエー」)の議論を復習しつつ導入し、生命倫理的なトピックを振り返る。生物的な生であるところの「ゾーエー」によって、私たちの人間的な生(「ビオス」)は根本的に支えられている、という点は、「人間環境学」科目の第三回講義において学んだ点であるが、このことを踏まえて見るとき、「脳死」・「安楽死」の問題は、果たして、生物的な生(ゾーエー)が維持されているだけ、という状態に、或る種の尊厳を見ることができることができるのか、さらには、人間的な生(ビオス)の質が耐えられないほどに低下してきたことが自覚される場合にはゾーエーとしての生に終止符を打つことが許されるのか、といった問題として捉え直すことができる、という点まで押さえる。
④ ―
⑤ ―
キーワード ① 死の人称性 ② 死の個人的性格 ③ 死の共同的性格 ④ ビオス ⑤ ゾーエー
コマの展開方法 社会人講師 AL ICT PowerPoint・Keynote 教科書
コマ用オリジナル配布資料 コマ用プリント配布資料 その他 該当なし
小テスト 「小テスト」については、毎回の授業終了時、manaba上において5問以上の、当該コマの小テスト(難易度表示付き)を実施します。
復習・予習課題 予習:本講義のコマシラバスを通読し、15回の講義の内容を総復習しておく。とくに、コマシラバスを読んで理解が曖昧であった部分については、該当する回の講義レジュメに立ち返り、疑問を解消しておくこと。また、これまでの講義でポイントになった、「死の人称性」(「一人称の死」・「二人称の死」・「三人称の死」)の問題、「死の個人的性格/共同的性格」の問題、二つの世界観(「世界観A」・「世界観B」)の問題を補助線として、各自で十五回の内容を振り返っておくこと。
復習:履修判定指標を読み、指標に記載されている観点から、コマシラバス・講義レジュメを再度読み込み、キーワードや各哲学者の議論を、指標で指定された文字数で説明できるようにして、期末試験に向けて準備をしておくこと。

履修判定指標
履修指標履修指標の水準キーワード配点関連回
ハイデガーにおける死の議論のポイント ハイデガーによる死の議論のポイントには、「死の代理不可能性」・「死の経験不可能性」という二つのものがあった。これらは、いったいどのようなことを表していたのか、講義内で説明した内容を要約して、それぞれ300文字程度で説明できる。また、ハイデガーの議論においてポイントになっていた「現実性」・「可能性」というキーワードを使用しつつ、彼が死を積極的にどのように定義していたのかを、端的に100文字程度で説明することができる。 死の代理不可能性、死の経験不可能性、可能性としての死 10 2, 3, 4, 5
「わたしの死」(一人称の死)と「だれかの死」(三人称の死) ハイデガーにおいて「わたしの死」と「だれかの死」との関係がどのように考えられているのかを、「本来性」・「非本来性」・「ダス・マン」というキーワードを用いて300文字程度で説明することができる。また、彼の議論と、トルストイの『イワン・イリッチの死』の内容とがどのように関連しているのかを、300文字程度で説明することができる。さらに、和辻哲郎は、ハイデガーの上のような考えを批判して、むしろどのような主張をしていたのか、「本来性」・「非本来性」という用語を用いながら300文字程度で説明することができる。 「わたしの死」、「だれかの死」、本来性、非本来性、ダス・マン 20 3, 5, 12
脳死と安楽死 現代の生命倫理学の主要トピックである「脳死」と「安楽死」のそれぞれについて、何が議論の争点となっているのかを理解することができている。具体的には、脳死の問題については、これが「臓器移植」の問題とどのように関連しているのか、という点を踏まえつつ、脳死という考えが登場してきた背景と、この考えへの賛否それぞれの意見を、合わせて500字程度で説明することができる。また、「安楽死」の問題については、「積極的安楽死」と「消極的安楽死」との相違を理解した上で、「積極的安楽死」を合法化することに対する反対意見の中で主要なものの一つである、いわゆる「すべり坂」の議論について、これがどのようなものであるのかを300字程度で説明できる。 脳死、臓器移植、安楽死、自己決定権、「すべり坂」の議論 20 6, 7
「あなたの死」(二人称の死) レヴィナスやジャンケレヴィッチによる「あなたの死」の議論について、理解することができている。具体的には、次のようである。レヴィナスによる、ハイデガーの死の議論に対する批判がどのようなものであり、またそうした批判の背景にはどのようなレヴィナスの経験があるのか、ということを200文字程度で説明できる。また、レヴィナスとジャンケレヴィッチが、それぞれ、二人称の死についてどのような特徴を認めているのかを、各300文字程度で説明できる。さらに、ジャンケレヴィッチが「わたしの死」について「一人称複数の問題」としてどのようなことを指摘していたのか、300字程度で説明できるようにしておく。 「あなたの死」、死の人称性、他者の二重の性格 20 8, 9
和辻および田辺による死の議論のポイント 和辻の議論について、彼は、日本と西洋において人の捉え方にどのような相違があると主張していたのか、また、そのような考えを背景にして彼は、「なかま」の中での死(共同体における死)をどのようなものとみなしていたのか、という点について、和辻の具体的なテキストを参照しつつ、500文字程度で説明できる。また、田辺の議論について、『碧巌録』の公案を、彼はどのように解釈していたのか、「生と死の二分法」・「死復活」というキーワードを用いながら、300字程度で説明することができる。 「なかま」の中での死(共同体における死)、間柄的存在、死復活 20 11, 12, 13
死と日本文化 日本の「氏神信仰」に関する柳田の議論を、その時代的な背景も含めて、「東京大空襲」・「融合一体化」・「生まれ変わり」というキーワードを用いながら300文字程度で説明できる。また、こうした柳田の議論は、田辺による「実存協同」の考えや、和辻による「死への存在/生への存在」の考えを補助線にすると、どのように整理することができるか、300文字程度で説明できる。さらに、以上のような和辻・田辺・柳田の議論を踏まえて、日本文化における死の扱われ方の特徴を、「個人主義」・「共同体」というキーワードを用いながら、300文字程度で説明できる。 氏神信仰、実存協同、「死への存在/生への存在」 10 11, 12, 13, 14
評価方法 期末試験(100%)によって評価する。 *成績発表後、教務課にて試験・レポートに関する総評が閲覧できます。
評価基準 評語
    学習目標をほぼ完全に達成している・・・・・・・・・・・・・ S (100~90点)
    学習目標を相応に達成している・・・・・・・・・・・・・・・ A (89~80点)
    学習目標を相応に達成しているが不十分な点がある・・・・・・ B (79~70点)
    学習目標の最低限は満たしている・・・・・・・・・・・・・・ C (69~60点)
    学習目標の最低限を満たしていない・・・・・・・・・・・・・ D (60点未満)
教科書 なし
参考文献 適宜指示
実験・実習・教材費 なし